内川聖一「家族や友人に『まだ野球するのを見たい』と言ってもらえたことが一番の後押しに」

大分ゆかりのあの人 第9回【前編】家族や友人に「まだ野球するのを見たい」と言ってもらえたことが一番の後押しに

プロ野球選手内川 聖一

大分にプロ野球の内川聖一選手が帰ってきました。日本野球機構(NPB)の首位打者2回(セパ両リーグで達成)、右打者打率歴代1位(0.378、2008年)、MVP受賞(2011年)、ゴールデングラブ賞受賞1回、WBC日本代表3大会出場などの輝かしい球歴を誇るレジェンド。2022年に惜しまれつつNPBを引退。ところが、野球の神様は選手活動から離してくれませんでした。今年、九州アジアリーグ「大分B-リングス」で現役選手を続行されている内川さんに、野球への思い、ふるさと大分への想いを語っていただきました。 後編はこちら 写真:三井公一

自分はどう生きていくのかという選択を初めてさせられた

――プロ野球独立リーグ「ヤマエグループ 九州アジアリーグ」の大分B-リングスの選手として、今春から活躍されていますね。まずはその前に、日本野球機構(以下NPB)での選手生活、大変お疲れ様でした。その後はNPBで指導者、あるいは野球解説者やキャスターなどを中心に活動されるのではなく、大分B-リングスで現役選手続行という選択の経緯から教えてください。

NPBを引退するときに、このまま競技自体をやめてしまうと自分がどんどん衰えていくような気がしたことが最大の理由です。今まで積み上げてきたものをいきなりゼロにする必要があるのか本当に悩みました。

内川聖一さん

多くの野球選手に言えることですが、これまで僕は自分の人生を選択したことがなかった。一般の方は高校卒業時に進学か就職か、大学卒業時にはどのような業種に就くのか、人生の中でも色々な選択をしながら生きてこられると思います。ところが、僕らの場合は前提として野球ありきで、選択肢はプロでやるのか大学でやるのかということぐらい。自分はどう生きていくのかという選択を、初めてさせられた出来事になりました。

知人や家族から「まだ野球するのを見たい」

さらに言えば、この歳になると「野球をやる意味」というのがないと続けられないものだと思うんです。そして、子どもの頃から応援してくれた友人や知人、家族から「まだ野球するのを見たい」と言ってもらえたことが一番の後押しになりました。「お疲れさん、もういいよ」って言われたらもう全然やる気はなかったと思います。

高校時代に一緒に野球をやってきた仲間からは、「今までは聖一がユニフォーム着て頑張っている姿を見て、自分たちも刺激されて頑張ってきた。これからは俺たちが大分でプレーする聖一に刺激を与えられるよう頑張るわ」って言ってくれて。そういうのってうれしいですよね。

大分に住む両親からも「いいじゃない。ぜひやってよ。いつまでもユニフォーム着てプレーしている姿を見たいし」って。「もういいわ」というところまでとことんやって、子どもの頃から見てくれていた方がたくさんいるところで、ユニフォームを脱ぎたいなという気持ちになりました。

――大分B-リングスの監督は大分県宇佐市出身の山下和彦(やました・かずひこ、元・横浜DeNAベイスターズ コーチ)さんですね。監督からの誘いというのも大きかったのでしょうね。

はい。一緒にやらないかと声をかけていただきました。大分B-リングスのGMは大分県大分市出身の岡崎郁(おかざき・かおる、元・読売ジャイアンツ コーチ)さんですし、宇佐市出身の山下さんが監督としてチームを率いておられるというのは、僕の中では魅力でした。おふたりとも、僕が子どもの頃にプロ野球で活躍されていた人で憧れの存在。そんな方が上にいることも入団の決め手になりましたね。

内川聖一さん

GMや監督からは「チームを勝たせたい、今まで経験したことや感覚をぜひ若い人たちに伝えてほしい」と言われています。僕はコーチではないけれども、求められることにきちんと応えたい。どういう形で地元に恩返しできるかも含めて、プレーしている姿を見たいと言ってくれる以上は自分が動けるならやったほうがいいと考えました。

僕が実際にプレイスタイルとして見せられるものは、この歳になってもフライの捕球に飛び込むとか、野球に取り組む姿とか、本当に野球が好きなんだなってことぐらいしか無いと思う。ただ、技術的な部分でも、彼らが求めることに対してきちんとした答えが出せるように勉強はしていこうと思っています。

(写真提供:大分B-リングス)(写真提供:大分B-リングス)

――大分B-リングスでの内川さんの目標は、ずばりリーグ優勝ですか。

GMも監督も選手全員の前で「優勝したい」と言ってくれてますし。チームの目標が優勝なら僕も一員としてやる。勝つことでファンの皆さんも応援してくれると思います。頑張っていても勝利という形がないと興味もわかないでしょうし、報道も少なくなると思いますから、今の野球への熱を1年間保ちたいと思います。

――試合のたびにお住まいの関東から九州の野球場に通うのですね。

試合のつど九州に戻ることになると思います。今年の契約ではホームの試合(大分B-リングス主催試合)に出場します。ただ、ビジターでも必要とされるのはありがたいので、他の仕事との兼ね合いでタイミングが合えばもちろん参戦したい。大分B-リングスの本拠地の球場は大分市にあり、準本拠地となる球場は佐伯(さいき)市、竹田(たけた)市、臼杵(うすき)市、別府市、中津市にありますが、これはこれで楽しみですね。

外野の球拾いというのは新鮮だった

――NPB時代には野球に関して国内最高の練習環境があったと思いますが、環境が激変しますね。

ある程度覚悟はしています。もちろんその違い、差は大きいです。公式戦前のキャンプにしても、例えばNPBの一軍キャンプではホテルに泊まり、球場とホテルを行き来しながらやるという感じですが、こちらのキャンプでは自宅からまっすぐ球場に通い、決められた時間だけ練習するという形です。洗濯とかクリーニングもNPBではスタッフにやってもらっていましたが、それも自分でやる。ボールやトレーニングの器具もどうしても自分で使いたいものがあれば自分で揃えるしかない。

――覚悟していてもその変化は大きいですね。

いや、楽しいですよ。もちろん周りがやってくれるほうが楽ですし、野球に集中できる環境が整っているのがプロだとも言えますが。限られたものの中で自分が何ができるのかを考えたり、裏方さんの人数も限られているので、その中でやるというのがかえって新鮮ですね。

(写真提供:大分B-リングス)(写真提供:大分B-リングス)

NPB時代には打球を「捕る」というのはあったけど、外野に転がったボールを「拾って集める」なんてことはなかったです。小学校以来かな。人生の中ではこういう経験が順番で回ってくるもんだな、と思うと新鮮で面白いです。

チームには20代のコーチ兼任の選手たちもいます。若い彼らは自分たちももっと練習したいわけです。だからシートノックなどの時も誰がやる? ってなったとき、周りを見回して「俺?」なんて(笑)。時には内野もノックしたりして。これまでやったことないことだらけで楽しいですね。

――受ける選手もうれしいのではないですか。内川さんのノックを受けられるというのは。

そう思ってくれたら僕もうれしいですけどね。チームも設立3年目になり、これまでの積み重ねも当然あるわけで。そこの部分も尊重しながら、こういうふうにした方がいいんじゃないかな、もうちょっとこういう方法もあるんじゃない、ということを少しずつ提案しながら、よりいいチームにしていけたらいいなという感覚でいます。

内川聖一さん

――その楽しい、というのはNPBの時とは違うものですか。

もう全く違いますね。じつはNPBの頃の野球は嫌でしょうがなかった。自分の立ち位置とか、給料に見合った活躍をすることが常に頭にあったので。楽しいと思ったことはほぼない。勝ってほっとしたり、優勝してよかったなという充実感はあったけれど、楽しいということではなかった。今は試合もめちゃくちゃ楽しいです。ボール拾いに行く時も、野球人生の中で今までやったことないしなって楽しめています。

――ポジションにもよるのでしょうが、引退される時には経年疲労などから腕が上がらなくなる人もいらっしゃるじゃないですか。でも今の内川さんは本当にお元気そうですね。

もちろん走るスピードとか瞬発力などは明らかに落ちていますが、プレーに関してはまだ頑張れると思います。むしろ若い人たちが頑張っている中で、「お前らより俺のほうが動いているんだぞ」ってのを見せたい(笑)。それが楽しみでもあります。

(写真提供:大分B-リングス)(写真提供:大分B-リングス)

ものごころついた時から家の中に野球があった

――内川さんが最初に野球に出合ったのは、お母さんにおんぶされていた幼少の時だったと伺いました。

そうですね。生まれた時には既に父は高校野球の監督だったんで、家の中に野球があるのは当たり前でしたし。聞く話によると、子どもの頃から遊び場所は父が監督しているグラウンドの邪魔にならないところ。アルバムを見てもバットとボールとグローブを持っている写真ばかり。ここで野球と出合ったという感覚やいつから始めたという記憶もないです。

――著書「内川聖一のバッティングバイブル」(ベースボール・マガジン社)の中で、内川さんが少年時代に入っていた「松岡少年野球クラブ」は、野球の楽しさを教えてくれるクラブだったというお父様の手記を読みました。

松岡少年野球クラブの監督さんはとても厳しい人ではありました。勝ち負けに関してではなく、挨拶とか学校の宿題をきちんとやるとか、そういう方面に関してすごく厳しかったんです。

内川聖一さん

でも野球の試合については、いかにいい状態でゲームに入れるかを気にしてくれましたし、打てなかったり、打たれて負けたりしても、試合後に車で迎えに来て、「魚釣り行くぞー」なんて言って連れて行ってくれたり。厳しいけれどふとした息抜きをうまくやってくれる監督でした。年に1回キャンプに連れて行ってくれたり、ダイエーホークスの試合を見に連れて行ってくれたり。あの頃の経験がなかったら、もしかしたら野球を続けていなかったかもしれない、というのは正直あります。

――いい出会いがあったんですね。

そうですね。僕は人生通して困った時とか、人生の岐路に立った時に必ずそういう人に出会っています。自分の力じゃどうしようもないことですよね。ありがたい人生を歩ませてもらっていると思います。

内川聖一さん

――お父さんからは高校に入るまでは野球のことはあまり言われなかったそうですね。

基本的にはぜんぜん言われなかったですね。父子鷹というと「巨人の星」みたいに、スパルタのイメージを持たれる方がいらっしゃると思いますが、違いました。僕が所属しているチームの監督と父親が教えることが違うと子どもが迷うから、預けている以上はそこの監督さんにすべてお任せしていると言っていたらしいです。

父親の思い出というと、例えば土曜、日曜に雨が降ると僕らは野球の練習が休みになり、父は高校の部活の練習を早く切り上げて帰ってくる。その午後の時間がすごく楽しみでした。バッティングセンターやボーリング場に連れて行ってくれたりして。一般家庭のように旅行へ行くという記憶もほとんどないので、その時間が唯一の楽しみでした。

――では雨が好きだった。

めちゃくちゃ好きでした(笑)。野球って不思議なもので、雨降ると部員はみんな喜ぶんです。

――入学した大分工業高校ではお父さんが野球部の監督さんでした。

高校に入る前に言われたのは、親子である以上は他の選手と力が5:5だったらスターティングメンバ―として使えない。6:4とか7:3でも使えないぞと。8:2とか9:1、10:0で明らかにお前が優れているってならないとお前使えないからな、というのは言われました。

内川聖一さん

――厳しいですね。それを言われてどんな気持ちでしたか。

もう僕の中では決心、覚悟はついていましたんで。いまさら言われてもなあ、って感じでした。それを言われたからってじゃあ他に行きますっていう選択肢は僕の中になかった。もうそれはどうぞ、って感じでした。

――高校の野球部といったら相当練習が厳しいですよね。

まあ本当に365日中、360日は練習してましたね。記憶にある休みは、夏休み終わって1回と、大晦日と正月の2日と、春休み終わってぐらいですね。ノックもきつかったしランニングもきつかったし。筋肉トレーニングもきつかった。でも当時は寝たら身体が回復していたんです。きつくても寝たら次の日全然大丈夫という感覚でした。

それでもさすがに毎日学校帰りに友達とは、「明日夏の大会が始まってもなんの後悔もないわ」って言ってました。それぐらい毎日野球をやり切っている感じがありましたね。いつ終わっても後悔ないわ、逆にうれしいかもって(笑)。

高校1年の秋に左足のかかとの手術で長期入院

――高校時代に重い足の病気をされたのですよね。

左足のかかとを3回手術しました。高校1年の秋、基礎体力を作るのに一番大事な時期でした。最初の手術で1カ月半ぐらい入院しました。それでよくなるだろうと思っていたんですが、1、2週間後の再診の結果、再手術に。その再手術の後は10日間ほど寝たきりです。今考えると大変だったのかなと思いますが、あまり記憶がないんです。足首を固定している期間も長かったし、左足を使わない期間も長かったんで、治った当初は左足の足首が硬かったり、細かったりということはありました。

しかし、その手術と長期の入院とリハビリがあったことで、今まで普通に歩けていたことってすごいな、とか、普通に野球できることってありがたいな、と改めて振り返るきっかけになりました。本当にもうちょっと野球頑張らないといけないなと考えたのは、そのリハビリをしている頃からですね。

――より野球に対して前向きになられたんですね。

そうですね。「俺ちょっと頑張らないといけないな」とはそこで思いましたね。周りの方は、病気があって高校3年間に野球を実質1年半弱しかやっていない中で、これだけ結果を残して、しかもドラフト1位になったということはすごいですね、って言ってもらえます。でも僕の中では、その病気があったからきちんと野球に向き合おうと考える時間をもらえたという感じです。

後編へ続く

内川聖一さん
内川聖一(うちかわ・せいいち)

PROFILE

内川聖一(うちかわ・せいいち)

1982年生まれ。大分県出身。大分工業高校からドラフト1位指名で横浜ベイスターズ入団。2008年、セ・リーグ史上最高打率.378で首位打者獲得。2009年、WBC決勝の韓国戦で決勝のホームを踏むなど攻守にわたり活躍。2011年、福岡ソフトバンクホークス移籍の年に2回目の首位打者となり、チームは日本一達成。同年、MVPに選出。最多安打2回(08年、12年)、最高出塁率1回(08年)、2018年に2000本安打を達成し名球会入り。2019年にゴールデングラブ賞(1塁手)受賞。2021年、東京ヤクルトスワローズに移籍。チームは日本一達成。2022年10月3日の引退試合、現役最終打席で通算2186本目の安打となる二塁打を放ち、生涯打率3割2厘でNPBでの現役生活にピリオドを打った。同年、ツーリズム別府特別大使就任。2023年からプロ野球独立リーグの大分B-リングスに入団し、現役選手として活動。4月から「サンデースポーツ」(NHK)解説者も務める。

大分B-リングス
ヤマエグループ 九州アジアリーグに所属する球団。2020年9月設立。
球団社長は森慎一郎氏、GMは岡崎郁氏(元・読売ジャイアンツ コーチ)、監督は山下和彦氏(元・横浜DeNAベイスターズ コーチ)。球団名のBは豊後、ベースボール、リングスは県鳥のメジロの目の輪、仲間の輪、約束を表す。

ヤマエグループ 九州アジアリーグ
九州を活動地域とする日本のプロ野球独立リーグ。
2021年から公式戦を実施。2023年度のリーグ構成チームは、火の国サラマンダーズ(本拠地:熊本市)、北九州下関フェニックス(同:北九州市)、宮崎サンシャインズ(同:宮崎県)、大分B-リングス(同:大分市)。これにNPBの福岡ソフトバンクホークス3軍および4軍との交流戦が予定されている。2023年度は3月から70~80試合(HOME/VISITOR合計)を予定。