竹藝家中臣 一
国指定史跡「岡城跡」がある城下町・竹田(たけた)市を拠点にする竹藝家の中臣一(なかとみ・はじめ)さん。その独創的な竹の造形表現が高く評価され、東京・銀座や香港で個展を開催したほか、ボストン美術館をはじめ世界中の美術館へ出品、外資系ホテルのアートワークを手掛けるなど、国内外で活躍しています。大阪出身の中臣さんが東京での大学生活を経て大分に移住した経緯や、竹田の竹が作品に与える影響、また日本の竹工芸の未来について、幅広くお聞きしました。
文:青柳直子 / 写真:三井公一
――まずは竹工芸との出合い、竹藝家を志したきっかけを教えてください。
都内で過ごした大学時代、美術研究会陶芸班に所属していて、美術画廊や展覧会などを見るのが好きだったので、東京・日本橋の高島屋のレストランでアルバイトをしていました。大学4年生の時に、催事会場でたまたま出合ったのが、生野祥雲斎(しょうの・しょううんさい)*1の「炎」という作品の写真でした。それまでは竹工芸の世界があるということすら全く知らなかったので、とても驚きました。「炎」は1957年の作品で、私が見たのが1998年ぐらいだったので、その時すでに40年以上も前の作品なわけですが、実物ではなく写真でも大きな衝撃を受けました。*1 生野祥雲斎(しょうの・しょううんさい):1904~1974年。大分県別府市出身。竹工芸で初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。「炎」は1957年、祥雲斎53歳にして日展で特選と北斗賞を同時に受賞した作品。1958年、大分県から天皇陛下への献上品として姉妹作が制作され、現在、宮内庁三の丸尚蔵館に所蔵されている。
――当時、大学4年生だったとのことですが、すぐに竹工芸の道に進むことを決められたのですか。
ほぼ同時期に、百貨店に催事に来ていた竹工芸家の大橋重臣(おおはし・しげおみ)さんともお話しする機会があり、別府に竹の学校があることを知ったんです。それでまずは見学に行ってみようと、大分県立別府高等技術専門校(現・大分県立竹工芸訓練センター)のある大分県別府市を訪れました。学校の先生と話したり、いろんな作家さんを訪ねたり、竹工芸品のお店に入ったり。でも「苦労するからやめておいた方がいいよ。そのまま就職しなさい」って言う方がほとんどでしたね。今も昔も厳しい世界なのは変わりありませんから。
――大分の竹工芸関係者からは一般企業への就職をすすめられたのですね。親御さんの反応はいかがでしたか。
実家は大阪のサラリーマン家庭ですから、苦労して東京の大学にやったのに「就職しない」と言われたらがっかりしますよね。ましてや仕事として成立するかどうかも分からない世界です。自分が親になった今、親の気持ちはよく分かります。でも当時の私としては「竹をやりたい」という一心で。そんなに深く考えていたわけではないんですけど。若いってすごいですね(笑)。
――あまり賛同が得られない中でも意志を曲げず、大学卒業後、別府高等技術専門校に入学されたんですね。
いや、実は入学試験で1回落ちているんですよ。それで実家に帰ってアルバイトをして移住資金を貯めることになります。大分では車がないと生活できないだろうと、運転免許も取りました。その間、大阪から別府にしばしば通い、学校にも顔を出すようにして、別府の竹工芸に触れる機会を増やしたんです。それらが功を奏したのか、2年目で無事に合格することができました。
――2回目の挑戦で入学がかなった学校ではどのような生活を送られましたか。
入った竹工芸科の授業は朝から夕方の4時半ぐらいまで。夏休みも冬休みもあるのですが、職業訓練学校なので失業保険が出るんですよ。おかげで竹の勉強に専念することができました。
学校では刃物の研ぎ方、使い方、竹の割り方など一から教わり、材料を作る手順を習ってからようやくひごを編む授業が始まりました。本当に何をしても楽しかったですね。子ども時代に虫捕りをしたり友達と遊んだりしてとにかく毎日楽しいような感覚に近い生活でした。1学年約30人の生徒たちは年齢も性別もバラバラ。趣味で竹工芸をやりたいという方も多くて、のんびりとした雰囲気でした。
温泉部を作って、毎週決まった曜日に4人ぐらいで別府市内の温泉を訪ねたり、ウクレレ部を作って誕生日の人をウクレレの演奏で祝ったり。元料理人の方がちらし寿司を作って学校に持ってきてくれたり、お家で料理を振る舞ってくれたり。竹の勉強以外でも生活すべてが楽しかったです。
住んでいたのが温泉付きのアパートだったので、暮らしに根付いた温泉も堪能しました。地元は大阪、大学は東京で、別府に来た当時は正直なところ、「すごい田舎だな」と思ったのですが(笑)、いざ暮らしてみたら、食べ物は美味しくて、人も優しいし、とてもいいところでした。
――そして2年目は大分県別府産業工芸試験所の中堅技術者養成指導コースに進まれました。
別府高等技術専門校竹工芸科は当時1年制。別府産業工芸試験所は、別府高等技術専門校の隣にある研究所で、その年は私を入れて6名が進みました(別府高等技術専門校は後に2年制となり、大分県立竹工芸訓練センターと改称)。試験所は1年目の別府高等技術専門校とは違い失業保険が出ないので、専門校を卒業するとすぐに工房に就職した人もいましたし、さらに学びたい人が進むという大学院のような感じでしたね。
私は試験所に通いながら最初はアルバイトをしていたのですが、そうすると竹に触れる時間が減ってしまうので、工芸品を扱うお店の人に仕事をもらって、竹工芸だけで生活するようにしていました。とはいえ、何のつてもない、学校出たての若者ができることは限られているので、貯金は目減りしていきますし、竹の世界で生きていくことの大変さを痛感しました。
――2002年に別府産業工芸試験所を卒業されてから、別府で工房を構えられていた本田聖流(ほんだ・しょうりゅう)さんに師事されます。本田先生とはどのようなつながりがあったのでしょうか。
お世話になっていた竹工芸品のお店で、本田先生が手伝ってくれる人を探していると聞いて、弟子というより本田先生の仕事を手伝うアシスタントのような形で入りました。本田先生のところでは3年間お世話になりました。
実は2024年に、祥雲斎以来、大分県から50年ぶりに人間国宝に認定された岐部笙芳(きべ・せいほう)先生も本田先生に師事していらっしゃいました。自分がいたころよりずっと前のことですけどね。人間国宝になられた方は大分県で2人目です。竹工芸の分野では岐部先生を入れて現在全国で3人の人間国宝がいらっしゃいます。同時代に3人が並び立つというのは初めてのことですし、これは大分県としても竹工芸界としても非常にうれしいことで、大ニュースです。
――中臣さんが最初にご自分の作品を作ったのは2005年に独立してからでしょうか。
いえ、本田先生に弟子入りした年の秋ですから2002年ですね。本田先生のところにアメリカのギャラリーの方が定期的に来られていたので、お見せして買っていただいたりしていました。先生のお手伝いと併行して、自分の作品を先生のアドバイスを受けながら制作し、アメリカに出していたので、3年目頃には独立しても大丈夫だなという感覚はありました。このギャラリーとは今でもつながっているので、先生との出会いは私にとって将来の方向性を決定づけたとても大きな出来事です。
本田先生はすごくお酒が好きで破天荒なところがある方なのですが、作品を制作する時はとても真剣で純粋でした。私に対してはとても優しく、丁寧に教えてくれましたね。はじめはそれが良かったのですが、数年すると先生のアドバイスに頼るばかりで、自分で考える力が衰えてくるように感じて、そのことも独立を決断した理由のひとつです。
――竹工芸品はもともとカゴやザルなどの生活用品として発展したもので、江戸後期からの煎茶道の興隆に伴い需要が増した、高級花カゴや茶道具を制作するカゴ師たちの存在や、生野祥雲斎をはじめとする近代竹工芸家の活躍により、芸術作品としての認知を高めていきます。中臣さんご自身、初期は実用品をベースにした作品を多く作られていますが、現在ではアート色の強い作風になっています。こうした作風の移行には何かきっかけがあったのでしょうか。
自分の中で境界はあまりないですね。岐部先生は花カゴや盛カゴなど「用の美」に則した作品を作られていますが、私も2007年ぐらいまでは用途の形態を残した伝統的な作品を作っていました。
工芸の世界で人間国宝になるにはいくつか条件があって、基本的には日本工芸会に所属して日本伝統工芸展で賞を重ねる必要があるんですね。また「用の美」というのも条件のひとつで、つまり全く用途の形態がない抽象的な竹のオブジェを出品しても、日本工芸会では全く評価されることはありません。私は当時その伝統的な世界しか目に入っておらず、日本伝統工芸展に出品し続けて何度も落選しました。4回目で初めて入選したのが2006年の「涼韻(りょういん)」という作品です。前年に出した「静し海(しずしうみ)」という作品は落選しています。
比べてみると分かるように、「涼韻」はシンメトリーできちっとしていますよね。「静し海」はかなりねじれているというかうねっているというか、ちょっとやり過ぎなんですよね。
自分も人間国宝への憧れがあったので、頑張って日本伝統工芸展に出していましたけれど、作っていると自然に揺らぎやねじれが出てきてしまいます。もともとの性格がゆがんでいるのでしょう(笑)。なぜかどんどん伝統の世界からズレていってしまうんですね。
それでも無理して日本工芸会の評価基準に合わせて作品を作っていると、なんだか疲れてきて、創作意欲が減退していくのが分かりました。あ、このままだとダメになるなと思って、自分の信じる道を歩もうと、今では抽象性の強い作品を多く作っています。ただ自分には向いていなかっただけで、「用の美」の世界は、工芸の王道だと思うので、残っていってほしいです。
――独立してから2012年に竹田市に移住されるまでの経緯を教えてください。
大分県に移住してから最初の8年間は別府にいまして、その後、由布市庄内町の農村地帯にある廃寺を住居兼仕事場にしました。もともとは竹工芸をやっていた友人が住んでいたのですが、地元に帰るということで、代わりに私が入居することになったんです。庄内町もとても静かでよいところで、4年間いました。
その後、竹田市が地域活性を目的に工芸家を呼び込む施策を行います。「“竹”田だから竹を扱う人に来てほしい」ということで、まず生野祥雲斎の息子さんである生野徳三先生のところに話がいき、徳三先生から私にお声がかかったんです。当時は自分もまだ若かったですし、気分転換のつもりで気軽に移住しました。これが2012年のことです。「koji note」に登場された紺屋そめかひの辻岡快さんが竹田に来られるちょっと前ですね。
――竹田市に移住する際、竹林の管理をすることも条件だったのでしょうか。
竹林の管理は必要に迫られてのことです。大分県はマダケの一大生産地で、かつては竹材屋さんがたくさんいらっしゃいました。多くの農家が副業で冬場、山に入って竹を切り出す切り子さんをやっていました。その竹を竹材屋さんが仕入れて、工芸用に油抜き*2をし、天日干ししたものを私たちが買っていたんです。ところが切り子さんが高齢化し、2010年頃から竹材屋さんもどんどん廃業して、以前より竹が手に入りにくくなってしまいました。ちょうど私が竹田に来る頃には限界に近い状態でしたので、山を紹介していただいて、借りて切らせてもらうことになりました。*2 油抜き:竹を熱することで油分を抜き、カビや害虫の発生を防ぐ加工法。苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)を入れた熱湯で煮沸する湿式法と、火であぶる乾式法がある。中臣さんは苛性ソーダではなく扱いやすいソーダ灰(炭酸ナトリウム)を使用する湿式法を採っている。
――作品の制作と竹林の管理、両方を行うのは大変ではないでしょうか。
そうですね。基本的には加工済みの竹を割るところからが自分たちの仕事だったので、料理人が海に行って魚釣りから始める、みたいな感じですよね(笑)。例年11月末頃に山に入って竹を切り出し、油抜きをしてきれいに拭き、天日で1カ月くらい干すと長期保存ができるんです。ただ、1年のうち10日間ぐらいの作業なので、両立するのがものすごく大変、というほどではないです。
もともと庄内町(2005年に合併して由布市に)には青物(あおもの)*3というジャンルがあって、自分で切った青いままの竹を使って昔ながらの民芸的なザルやカゴを作る職人さんがいるんですよ。祥雲斎もご自身で竹を切られていますしね。大分の小鹿田焼(おんたやき)*4も土をとってきて器を作りますよね。もともと工芸というのは、材料の調達からがスタートなんですよね。*3 青物(あおもの):伐採した竹を油抜きせず青いまま加工した竹工芸品。*4 小鹿田焼(おんたやき):大分県日田(ひた)市に伝わる陶器で、300年以上の歴史を持つ国指定重要無形文化材。一子相伝で門外不出の技法を伝えており、現在9軒の窯元がある。集落の周辺で採取する土を原料とする。
【参考】坂本工「色彩や装飾ではなく、形そのもので感動してもらえる器を作りたい」
――ご自身で竹林を管理し、竹を切り出すことから始めることによって、作品に与える影響はありましたか。
竹に対する理解が深まりました。地質や年数によって竹の性質がかなり違うということは、知識としてありましたが、実感としてはあまり分かっていませんでした。かつてはお金を出せばきれいな竹を買うことができましたが、自分で作るとなかなかきれいにならないんですよ。傷が入っていたり節が汚れていたり。自然のものなので油抜きをするまで分からない部分もあり、これまで以上に竹を大切に扱うようになりました。
――竹田のマダケにはどのような特徴がありますか。
阿蘇の火山灰の影響だと思いますが、柔らかいので編みやすいですね。特に私の作品では「Frill(フリル)」というシリーズが、有機的な曲線を特徴としていて、竹田のマダケを使うと作りやすいです。
――竹田に移住されて12年。制作環境、住環境としてはいかがでしょうか。
移住した当時は古い日本家屋を住居兼工房にしていたのですが、竹にとっては湿気が大敵です。行政の方に相談したところ、旧竹田中学校の校舎を利用して、市民が創作活動を行うためのスペースとして2014年に開設された「竹田市クリエーション工房『竹田総合学院TSG』」を、工房として使わせてもらえることになりました。
現在はさまざまなジャンルの芸術家が入居していますが、私が第1号でしたので、一番景色のいい音楽室を使わせてもらっています。隣の部屋も竹材の管理庫として借りています。広々としていて制作しやすいですし、窓の外にはすぐ竹田の自然が見えます。今朝もススキをとってきてそこに飾ったんですけど(当取材は12月初旬に実施)、季節の花を生けたり、竹田の豊かな自然から作品を創作する際に何かしら影響を受けているでしょうね。
竹田には江戸時代の画家の田能村竹田(たのむら・ちくでん)や、音楽家の瀧廉太郎、彫刻家の朝倉文夫とそうそうたる芸術家がいましたので、創作を促す土地の力を感じます。文化にも理解が深い土地なので、アーティストにとっては恵まれた環境だと思いますよ。
住環境としてはたとえ災害が起きたとしても、名水百選に選ばれるほど湧き水は豊富だし、温泉もあるし、一次産業に携わる方が多いので食べ物もなんとかなるでしょうし、そういう意味では心強いなと思います。
――作品は年間どのくらいの数を作られているのでしょうか。また制作の工程についても教えてください。
コミッションワーク(受注作品)と自分自身の作品と合わせて20に届かないくらいですね。割合としては7割がコミッションワークです。例えばホテルのアートワークだと、打診の時点では建物自体できていないことが多いので、図面を見ながら考えたデザイン案を出して、それが採用されたら材料を確保して作り始めます。大きさなどによっても異なりますが、製作期間は長いもので1年ぐらいですね。
「あのホテルにあった作品と同じようなものを」というオーダーもありますし、「今までにない全く新しいものを」というご要望もあります。全く新しいものとなると失敗するリスクもありますから、ご説明した上でコンセプトを伺って、先に小さな模型のようなものを作ってお出しします。
――中臣さんの作品には、幾何学図形を重ねて光のきらめきを表現した「Prism(プリズム)」、ひらひらとした有機的な曲線が特徴の「Frill」などのシリーズがありますが、これらの作品はどのようにして生まれたのですか?
新しいものが生まれる時というのは、自分が何をやっているのかよく分かってないんですよね。手を動かしながら何かあやふやなモヤモヤした感じで作っていくと、何か新しいものが生まれると言いますか。コンセプトは後から振り返ることで、気づいてつけることが多いです。
――アメリカなど海外での評価も高い中臣さんの作品ですが、どのようなところが評価されていると思われますか。
手間暇をかけて作られた自然素材の竹の作品が、生活空間にあることで精神的に安らぐということもあると思いますし、いろんな造形があるので創造性を刺激されるというのはよく伺います。
――アジアを中心に世界には竹の工芸品が多くありますが、日本の竹工芸にはどのような特徴があるのでしょうか。
日本の竹工芸は独特なんですよ。技法のバリエーションが豊富なこと、完成度が高いこと。そして用途の形態の中にも、わびさびなど、さまざまな美意識が込められているのが特徴だと思います。
私は大学の卒業論文で青銅器の文様について書いたのですが、縄文土器など、用途だけのために作られているとは到底、思えないですよね。文様には呪術的な意味合いが込められているんです。工芸も必ずしもすべてが用途として成り立っているのかというと、そうではないだろうと思うんです。例えば長寿や繁栄を願う吉祥(きっしょう)文様は古くからさまざまな道具に用いられてきました。
私の作品でいうと「8祝ぐ(はちほぐ)」というシリーズがありますが、予祝(前祝い)の意味を込めて作っています。幸せを願うための文様なので、基本的には吉祥文様と同じ考え方です。
――最後に今後の展望を教えてください。
竹工芸は陶芸のように大名家に保護されていませんでしたし、竹工芸を学ぶコースが日本の大学には1つもないことからも分かりますが、あまり重要視されていない工芸分野ですよね。一番長く続いた家で5代目まででしたから。手間暇がかかる割には報われない仕事で、継ぐメリットがないのかもしれません。あとは、竹の技術はある程度まではマスターできるのですが、人それぞれ微妙に違う手の大きさや形によってすごく変わってくるので、継ぎにくいということもありますね。
逆にいうと自分もそうですが、業界が流動的なので全然関係のないところから入ることも可能です。これから竹工芸をやる人が何万人にも増えるということは考えていませんが、オープンで特殊な工芸として広がりを持っていけばいいなと思っています。
さまざまなバックボーンを持った方が竹の世界に入ってきてくれることで、より面白い世界になるでしょうね。実際にいろんな職を経てきた竹の作家が多いので、今の多様性があるのだと思います。これから面白くなってくる日本の竹工芸の世界に、ぜひご注目いただきたいです。
PROFILE
中臣一(なかとみ・はじめ)
1974年、大阪府生まれ、大分県竹田市在住。 大分県立別府高等技術専門校(現・大分県立竹工芸訓練センター)を経て、竹藝家の本田聖流氏に師事。2005年に独立。 伝統的な技法や形にとらわれず、独創的な竹の造形表現に取り組んでいる。 東京・銀座や香港で個展を開催したほか、ボストン美術館、フランス国立ギメ東洋美術館など世界中の美術館展覧会に数多く参加。 また、ザ・リッツ・カールトン京都、フォーシーズンズホテル東京大手町、ANAインターコンチネンタル別府リゾート&スパなどのアートワークも手掛ける。 パブリックコレクションは、フィラデルフィア美術館、サンフランシスコ・アジア美術館ほか多数。