色彩や装飾ではなく、形そのもので感動してもらえる器を作りたい

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大分に暮らすということ 第5回色彩や装飾ではなく、形そのもので
感動してもらえる器を作りたい

小鹿田焼陶工坂本 工

大分県日田市の小鹿田焼(おんたやき)は、300年以上の歴史を誇る国指定重要無形文化財。窯元がある皿山地区(住所表記は源栄町皿山=もとえまちさらやま)は、日田市中心部から車で30分ほど離れた山中にあり、小鹿田焼の里として、棚田がある池ノ鶴地区(源栄町池ノ鶴)とともに、国の重要文化的景観にも指定されています。小鹿田焼協同組合の理事長であり、自らも日夜作陶に励んでいる坂本工(さかもと・たくみ)さんに、小鹿田焼の特徴や魅力、そして知られざる作陶上の苦労などについて教えていただきました。
文:井上健二 / 写真:三井公一

機械に頼らず、全工程を手仕事で行う日本最後の窯元の里

――坂本家は、小鹿田焼の歴史と深く関わっている家柄だと伺いました。

小鹿田焼は、筑前藩主・黒田長政が、16世紀の朝鮮出兵の際、陶工を日本へ連れ帰ったことに端を発します。その子孫が17世紀に入り、ここから山を隔てた福岡県で小石原焼を開窯します。

18世紀に入り、江戸幕府直轄の天領だった日田の代官が、領内の生活雑器の需要に応えるために、小石原焼の陶工・柳瀬三右衛門(やなせ・さんえもん)を当時「小鹿田」と呼ばれていた皿山地区へ招き、陶芸の技術を伝授してもらったことから、小鹿田焼が始まります。三右衛門は、小石原焼の本家の家柄でした。そんな彼がなぜ小鹿田へやってきたのか。文献が残っているわけではないので、理由はいまだに不明です。

窯を開くためのインフラ造りに必要な資金は、小鹿田から少し離れた村に住む黒木十兵衛という人物が出しました。おそらく、日田の代官と何らかの関わりがあったのでしょう。そこへ、作陶に必要な土地を提供したのが、小鹿田のセンドウ(指導役)だった私の祖先である坂本家。土地を柳瀬家と黒木家に売り払い、多額のお金を得たようです。坂本家は、柳瀬家と黒木家から100年ほど遅れて作陶を始めます。

私の想像では、坂本家は土地を売って得たお金を100年余りで使い果たしてしまい、食い扶持(ぶち)に困って作陶を始めたのでしょう(笑)。条件の良い土地はすでに柳瀬家と黒木家に売っていましたから、子孫である私たちは、条件が決して良いとはいえない場所で、長年苦戦を強いられています。坂本家は、私で8代目になります。現在でも小鹿田焼を担っているのは、柳瀬家、黒木家、坂本家、小袋家のみ。全部で9軒です。

坂本工さん

――皿山地区を訪れてまず驚かされたのは、陶土を粉砕するための「唐臼(からうす)」の音が、絶え間なく山間に響き渡っていることでした。不思議な温かみを帯びたその音色は、「日本の音風景100選」の一つにも選ばれています。

小鹿田焼の原料となる土は、集落周辺で採取しています。それを天日干しで乾燥させた原土を、細かく粉砕するために使われているのが、朝鮮から伝わった唐臼です。ししおどしと同じ原理で、谷川から引いた水が杵の先端にある受け皿に貯まって下がると、反対の先端が持ち上がり、受け皿が水をこぼして空になると、持ち上がった杵が勢いよく落ち、臼状の凹みに入れた原土を粉砕する仕組みです。きめの細かい粒子状になるまで、10〜14日ほどかかります。

かつて唐臼は日本中の窯元で使われていましたが、観光用ではなく、集落のすべての窯元が機械を使わずに現役で唐臼のみを使っているのは、現在では小鹿田焼だけになりました。

私は生まれたときから、ずっとこの唐臼の音を聞いて育ちました。高校卒業後、一時東京に出た時期もあるのですが、そのときは当然ながら唐臼の音がまったく聞こえなかったので、不自然に感じたことを覚えています。

――その唐臼で、1カ月にどのくらいの原土が得られるのですか。

少ないですよ。唐臼で粉にしたものを水槽で水と混ぜて、ろ過した上澄みを別の水槽に入れてさらに沈殿させたものを、天日で数日間かけて乾燥させます。この1サイクルで得られるのが、うちでは1カ月でバスタブの半分くらいの分量です。その原土から作る焼き物が、私たちの生活の糧のすべてなのです。

(左)原土を細かく粉砕する唐臼 (右)水槽で2度ろ過し、天日で数日間乾燥させた原土(左)原土を細かく粉砕する唐臼 (右)水槽で2度ろ過し、天日で数日間乾燥させた原土

必要に迫られて生まれた技巧が、独特の素朴な美しさを生む

――小鹿田焼の窯元は家族単位で、男子の一子相伝で門外不出の技法を伝えており、300年前の古き良き伝統を現代まで紡いでいる貴重な存在として知られています。

それはその通りですが、一子相伝にせざるを得ない裏の事情があります。皿山地区は山中の狭い谷にあり、周囲を斜面に囲まれて平地が少なく、新たに土地を広げることはできません。限られた狭い土地で、作陶だけで食べていくのは大変で、減反政策*1以降は専業化しましたが、昔は農業との兼業が当たり前で、農閑期に窯業を行う半農半陶で生活していたそうです。

貧しくて、経済的に一家族が食べていくのがやっとだったので、必然的に一子相伝にせざるを得なかったというのが真相です。それで結果的に古い技法が伝わりやすかったのでしょう。男子が継ぐという伝統も、原土の採取から成形、登り窯での焼成まで、機械を使わずに行うのが重労働過ぎて、体力的に女性では難しかったからだと思います。私は今年で59歳ですが、そろそろ体力的に厳しい局面が出てきています。*1 減反政策:1970年から始まった米の生産調整を行うための農業政策。2018年に廃止。

――器に絵を描かない小鹿田焼は、蹴轆轤(けりろくろ)*2を用いて成形し、蹴轆轤を回転させながら、刷毛目(はけめ)*3、飛び鉋(とびかんな)*4、櫛描き(くしがき)*5といった独特の技法により、素朴な幾何学模様で装飾しています。

こうした技法は元々、純粋な装飾のためというよりも、必要に迫られて生まれたものです。このあたりの原土には鉄分が多く、脆いという特徴があります。蹴轆轤での成形も難しいため、瓶や壺といった大物は、「紐づくり」という手法を用いるほど。土を紐状にまとめて、それを器を支える土台となる高台に、下から上へと巻きつけて成形するのです。

鉄分が多すぎると仕上がりは黒っぽくなりますから、白い化粧土をかけます。小鹿田焼が使っている薪を燃やす登り窯では、温度管理が難しいので、素焼きの技術が確立していません。温度が低過ぎると割れますし、温度が高過ぎると釉薬(ゆうやく)が乗りにくいのです。素焼きをしない器に、化粧土をかけても定着しにくい。そこで刷毛や鉋、櫛といった道具を駆使して、模様をつけながら化粧土の定着を良くしているのです。*2 蹴轆轤(けりろくろ):脚で蹴って回す轆轤(ろくろ)。
*3 刷毛目(はけめ):刷毛を使って化粧土で連続的に濃淡をつける技法。
*4 飛び鉋(とびかんな):手作りした柔らかい鉋で、連続的に細かい文様をつける技法。
*5 櫛描き(くしがき):手作りの半月状の櫛のような道具で、波のような曲線を描く技法。

坂本工さん
連続的に細かい文様をつける飛び鉋
化粧土で連続的に濃淡をつける刷毛

――意外でした。この辺りの土は、作陶に格別向いているわけではないのですね。

成形しにくいし、弱くて火を入れると割れやすいし、決して焼き物向きではありません。それでも、私たちは集落周辺の土を使うことにこだわっています。原土を採取する場所は定期的に変わり、私が作陶を始めて以来、現在の採取場所は4カ所目です。

日本の他の産地では、成形や装飾や焼成が容易なように、いろいろな産地の土を混ぜて使うのが当たり前になっています。小鹿田焼も、(佐賀県で窯業が盛んな)有田あたりの土を混ぜたら、ずいぶん作陶がラクになるでしょう。でも、土を変えてしまうと、小鹿田焼の工程や技法が根底から崩れます。工程や技法は、何よりも土の性質で変わるものだからです。

また、焼成に使う登り窯で燃やしている薪は、廃材を2年間かけて乾燥させたものです。狭い窯の内部に器を運び込み、数日間かけて焼き上げるのは、骨の折れる作業です。土を混ぜたり、ガス窯に変えたりしたら、どれだけラクだろうといつも思っています。

でも、先達たちも、同じような不平不満をこぼしながら、悪条件に負けず300年以上続いてきたのですから、私たちはこれからも小鹿田焼の伝統を守っていきたいと考えています。

長き伝統を受け継ぐ職人の誇りを抱き、その伝統に安住しない勇気を持つ

――昭和期に、民芸運動の創始者の柳宗悦(やなぎ・むねよし)*6や、世界的な陶芸家バーナード・リーチらにより広く紹介されたことがきっかけとなり、小鹿田焼は世の中に知られるようになりました。

柳先生の教えは、いまでも小鹿田焼の根底の部分で息づいています。「みだりに間違った道に行くな」という柳先生の励ましの言葉は、悪条件のなかでも、昔ながらの作り方を守っている原動力になっていると思います。また、リーチさんが、1954(昭和29)年に皿山に滞在して伝えてくれたピッチャー(水差し)の取っ手の作り方は、いまでも伝承されています*7*6 柳宗悦(やなぎ・むねよし):1889~1961年。美術評論家、宗教哲学者。大正末期から民芸美論を論じ、講演と調査、収集のため国内外を旅する。工芸家と同志的な交流をもち、民衆の工芸の美を解明、民芸運動の普及に努めた。雑誌「工藝」「民藝」を創刊。1936(昭和11)年、東京・駒場に日本民芸館を創設。*7 伝承された取っ手の作り方:江戸時代に取っ手が付いた水差しを作っていたのは、日本では小鹿田焼など少数の窯元に限られた。職人が長崎まで出向き、西洋の取っ手付きの水差しを参考に作ったとされている。以前は紐状に丸めたもので取っ手を作っていたが、リーチは水で伸ばしながら取っ手を作る方法を伝授した。

民芸運動が重んじる“用の美”が、小鹿田焼に結実していると思われますか。

そう評価されるとしたら有り難いことですが、作り手サイドから、用の美*8を語るのはおかしいと思っています。用の美が宿っているかどうかは、あくまで使い手側が評価するものだからです。*8 用の美:柳宗悦が始めた「民芸運動」に由来。西洋的な「アート」の思想が導入されてから、目を向けられなかった日本の無名の作者、職人の手仕事による生活道具の簡素で飾らない美しさと、道具としての機能性をあらためて評価する思想。

坂本工さん

――小鹿田焼が“銘”を入れないのも、民芸運動の影響なのでしょうか。

小鹿田焼は、窯元全員で作るという意識が高く、作品に窯元名を入れることをしないのが伝統でした。柳先生らの教えを受けてから、その思いを強くしています。(民芸運動の中心人物である)河井寛次郎先生や、浜田庄司先生が、銘を印すことをよしとしていないのに、私たちが銘を印すのはおこがましいと思っています。ただし、協同組合としては、破損の際などに責任の所在を明らかにするために、製造者カードを付けるなどして製造した窯元が分かるようにしています。

――柳宗悦は、名もなき職人の手仕事から生まれる工芸品の美しさにスポットを当てました。ご自身は、自らを作家だと思っていますか。 それとも職人だと思っていますか。

自分が作家か、それとも職人なのかと深く考えたことはありません。私にとっては作家も職人も、同じような存在だと思えるからです。私自身、焼き物の作家さんと交流があります。彼らの勉強量は桁外れですし、途方もない試行錯誤を繰り返しながら、自身の世界を追求しています。その努力には、頭が下がります。

しかし、そうした作家さんが試行錯誤の末にたどり着くゴールと、伝統的な職人が目指しているゴールは、あまり変わらないような気がしています。どちらも、突き詰めて洗練させるプロセスでは、無駄を省く作業が欠かせないからです。

小鹿田焼の見かけは地味ですが、器は料理を盛って初めて完成するものですから、むしろ地味なくらいでちょうどいい。先達が試行錯誤を繰り返した結果として、引き算の美学が小鹿田焼には根付いていると思っています。

300年を超える歴史を誇る小鹿田焼でも、作り手一人ひとりが伝統を突き抜ける余地はまだまだ残っていると思います。人生は短く、作り手が現役で活躍できるのはせいぜい30〜40年。むしろ職人こそ、伝統にあぐらをかいて努力を忘れてはならないと考えています。

――個人的に、器作りでこだわっているポイントはどこですか。

大物も小物も、同じような熱意で取り組みたいと思っています。三寸皿(直径約9cm)を写真に撮って二尺皿(直径約60cm)のサイズまで拡大したとしても、細部に至るまで破綻がないように仕上げているのです。さらに言うなら、仮にモノクロで写真に収めたとしても、良さが伝わるものを作りたいと思っています。色彩や装飾ではなく、形そのもので感動してもらえる器を作りたいのです。

坂本工さん

作陶を好きになる努力を続けていたら、見えてきたのは自然の恵みの有り難さだった

――坂本家に長男として生まれて、お父様の跡を継ぐことに抵抗はありませんでしたか。

抵抗はありましたよ。父親の仕事を間近で見ていて、大変さは痛いほど分かっていましたから。ただ、私には姉と妹しかいなかったので、男子の一子相伝であれば、長男である私が継ぐほかない。かつては男子で誰も継ぐ者がいない窯元では、養子を迎えたことも少なくなかったと聞いています。

先ほど触れたように、父親の仕事を継ぐことに抵抗する気持ちがあり、地元の高校を卒業した後、一時期東京へ出たこともあります。グラフィックデザイン関係の専門学校へ通ったのです。しかし、父親に懇願される形で結局は地元に戻り、19歳からこの仕事をしています。坂本家当主を引き継いだのは、40歳になってからです。

私だけではなく、小鹿田の窯元に生まれた男子で、好きで作陶をしている人の方が珍しいでしょう。でも、19歳で本格的に作陶に向き合ってからは、少しでも好きになる努力をしています。イヤイヤやるのでは、やはりモチベーションが続きませんからね。

坂本工さん

――その努力が実り、作陶が好きになれたのでしょうか。

いまは、小鹿田焼に大きな魅力を感じています。苦労は多々ありますが、天然の素材だけを用いて手仕事で作られる器作りでは、自然の恵みを肌で感じられます。この歳になると、それは有り難い体験だと思えるようになりました。

――坂本家では、次の世代は育っていますか。

長男の創(そう)が、20歳から私の隣の轆轤で仕事に励んでくれています。うちも男子は創だけですし、8代続いた家業を終わらせたくないので、創がこの仕事を好きになってくれるような環境作りには、心を砕いてきたつもりです。幸いにも私の意志が伝わったのか、創は窯業科(現・セラミック科)がある佐賀県立有田工業高校へ進み、鳥取県の作家さんの元で2年間の修業を終えた後、一緒に仕事をしてくれています。

――窯元に生まれなかったら、どんな仕事をしていたと思いますか。

小学校の頃は、ガラス職人になりたいと思っていました。土と違ってガラスは透明でキレイですし、熱して息を吹き入れるとあっという間に成形できます。それを1〜2日間かけて冷ませば完成です。父親の仕事を間近で見ていて、焼き物よりも手がかからないと思って惹かれたのでしょうね。父親への反抗心も、手伝ったのかもしれない。

いまではガラス職人さんとの交流もありますから、子どもの頃に思ったように、ラクな仕事ではないことは重々分かっています。とにかく作業場が暑くて、夏場は熱中症になりかかるほど過酷だそうです。いや、ガラス職人にならなくて良かったと思っています(笑)。

――普段の飲食はご自身で作った器で楽しむのでしょうか。

自分で作った器で飲むことはないですね。仕事を思い出してしまいますし、勉強のためにも他の産地の窯元さんの器を使うようにしています。毎日のように晩酌はしていて、飲むのは焼酎が多いですね。飲み方は、お湯割りが好きです。

――最後に、小鹿田焼が、他の焼き物と一番違うところは、どこだと思いますか。

天然の原材料を使い、最初から最後まで機械に頼らず、手仕事で作っているのが、他にない小鹿田焼の特徴です。そこで生まれる器は、もっとも自然に近い焼き物。器は食べ物を盛りつけるものですし、食べ物は口から体内に入ります。できるだけ自然なものを手にしたい、口にしたいと思う方には、小鹿田焼はピッタリではないでしょうか。

坂本工さん作の器たち
坂本工(さかもと・たくみ)

PROFILE

坂本工(さかもと・たくみ)

1963年、大分県生まれ。小鹿田焼協同組合理事長。地元の高校を卒業後、東京の専門学校に進んだ後、家業の作陶の道へ。40歳で坂本家8代目当主を受け継ぐ。家族は妻と長男、長女、次女。