Sparkle Oita Racing Team「自転車競技から大分の魅力を発信『ツール・ド・九州2023大分ステージ』優勝を目指す!」

大分に暮らすということ 第10回自転車競技から大分の魅力を発信
「ツール・ド・九州2023大分ステージ」優勝を目指す!

Sparkle Oita Racing Team(スパークルおおいた)黒枝 士揮選手、咲哉選手
黒枝美樹監督兼GM

2021年、大分市を拠点とするプロ自転車レーシングチーム「Sparkle Oita Racing Team(スパークルおおいた)」が誕生しました。立ち上げたのは兄弟プロサイクリストの黒枝士揮(くろえだ・しき)、咲哉(さや)両選手と兄弟の父で監督兼GMを務める黒枝美樹(みき)氏。兄弟でプロ選手を目指した経緯、地元大分への熱い思い、家族でプロチームを立ち上げる苦労、そして2023年10月に開催される国際ロードレース「ツール・ド・九州2023」への意気込みなどをお聞きしました。
文:青柳直子 / 写真:三井公一

小さい頃から自転車にのめり込んだ士揮選手。高校1年生で全国優勝

――黒枝士揮選手、咲哉選手、まずはお2人がプロのサイクリストとなるまでの経緯について教えてください。

黒枝士揮選手/以下、士揮 私が自転車競技と出合ったのは5、6歳の頃でした。父に連れて行かれた自転車のいわゆる草レースで、それが最初に出場したレースだったと思います。父は元々自転車競技が趣味で、年に数回、主に九州全域で行われるレースに出場していたんです。レースに参加する際には、自転車仲間と一緒にキャンプをしていたんですよ。僕たちも家族で参加していたのですが、それがすごく楽しくて。そういう子どもの頃の楽しかった記憶が強烈に残っていて、中学に上がる頃には「高校に行ったら自転車競技部に入りたい」って言っていました。

中学には自転車競技部がなかったので、自転車に乗るための体力をつけるのが目的で陸上部に入りました。陸上をやりながら、頻度は高くはありませんが、ロードレースの他に、競輪場を走るトラックレースにも出場していました。そして中学3年になり、自転車競技部のある高校を進路に選びました。当時、家から通える距離で自転車競技部のある高校が、別府市と日出(ひじ)町の2校あったんです。

兄の黒枝士揮選手兄の黒枝士揮選手

別府の方が近いのですが、「日出に行け。遠い方が強くなるから」という父の一声で、県立日出暘谷(ひじようこく)高校に進学。雨の日も風の日も、大分市から毎日往復66km、自転車で通いました。最初は片道1時間半くらいかかっていたんですけど、3年生の頃には50分くらいにまで縮まりました。「朝少しでも長く寝たい」という気持ちが原動力だったかもしれません(笑)。

入学してまもなく、自転車での通学中に坂道で転倒事故を起こして鎖骨を粉砕骨折してしまいました。しばらく自転車には乗れなかったんですけど、ランニングや下半身のトレーニングは続けていて、復帰戦となった1年生の終わりの3月に全国大会のトラックレースで優勝することができました。その後はトントン拍子で、インターハイ(全国高等学校総合体育大会自転車競技大会)と全日本選手権、国体(国民体育大会)で優勝。卒業後は鹿児島県にある国立鹿屋(かのや)体育大学に進学しました。

――ケガはあったけれど、高校では順風満帆のサイクリスト生活ですね。

士揮 ところが、大学に入ったところで初めての一人暮らしだし、強い先輩もいるしで、ちょっとやさぐれてしまいまして(笑)。1年生の頃はあまり自転車に乗らなかったのですが、これではいけないと心を入れ替え、トレーニングを再開しました。2年と3年の時に大学生のクリテリウム(小周回のロードレース)で優勝、そして3年生で出場した国際大会である「ツール・ド・北海道」の第1ステージで優勝することができました。

実は高校生の時、最初に優勝したのがトラックレースだったので、競輪選手になろうと思った時期もあったんですよ。でも経験を積む中で、さまざまな街に旅してその土地の景色を楽しむことができるロードレースにひかれ、プロのロードレーサーになりたい、それならヨーロッパで挑戦してみたいという気持ちが強くなり、日本と欧州を拠点とする国際チーム「VINI FANTINI NIPPO」*1に入団しました。*1 VINI FANTINI NIPPO:日本人とイタリア人の選手とスタッフで構成されたイタリア登録のUCIコンチネンタルチーム。創設は1985年で、2019年にチームを閉じた。

中学まで楽器演奏に没頭。高校進学時に急きょ自転車競技に転向した咲哉選手

黒枝咲哉選手/以下、咲哉 僕も兄と一緒で5、6歳の頃、家族でキャンプに行って自転車に乗った、という記憶はあるのですが、兄のように自転車にはハマらず。母の影響で小1から始めたピアノに夢中だったんです。ピアノ以外にも水泳、塾、ソフトボールもやっていましたが、メインはピアノ。毎日数時間練習して、大分県のコンクールに出場していました。ピティナ・ピアノコンペティション(世界最大規模のピアノコンクール)でも1度だけ九州大会に出場することができ、それが僕にとっては大きな成功体験でしたね。

中学では吹奏楽部に所属。ピアノやトロンボーンを担当しました。吹奏楽部でも九州大会に出場しました。そんな風に音楽をやってきたので、音楽科のある高校に推薦が決まっていたんです。将来も音楽の先生やピアニストを考えていました。でもいざ、願書を出す直前になって、急にスポーツしたいって気持ちになったんです。だったら身近に自転車があるし(笑)。最後の三者面談の場で初めて「自転車やります!」って宣言しました。

士揮 母、号泣、だったよね。そして監督(父)が母にめっちゃ怒られてたよね(笑)。

咲哉 士揮には相談したと思うけど。そしたら「好きなことすればいいんじゃない?」みたいな(笑)。

士揮 言ったね。でも「キツイよ」とも言ったよ。

黒枝美樹監督兼GM/以下、黒枝監督 私も止めたんですよ。そんな簡単にできるスポーツじゃないし、なによりピアノを頑張っていたので、そのまま音楽科に行ったほうが絶対将来のためになるって。

咲哉 でも自分はあんまり人の言うことをきかないタイプで(笑)。自分から、兄と同じ、日出暘谷高校に進学することを決めました。練習とか、あんまり好きじゃないんで、遠い方がいいと思って。高校から自転車を始めたので、やっぱり1年間はいい成績は出ませんでした。兄が1年生で優勝したので、僕もすぐ優勝できると思ったんですけどね。そんなに甘いものじゃなくて。

弟の黒枝咲哉選手弟の黒枝咲哉選手
黒枝美樹監督兼GM(右)と黒枝兄弟黒枝美樹監督兼GM(右)と黒枝兄弟

兄の後を追いかけるように自転車競技の名門、鹿屋体育大学に進学

咲哉 2年生の全日本選手権で4位か5位になって、そこからジュニアのナショナルチームに呼ばれて海外のレースに出るようになりました。そして2年生の終わりにアジア戦で3位に。それが初めて上がった表彰台でした。その後、3年生でインターハイ優勝、全日本選手権でも優勝して、兄と同じ国立鹿屋体育大学に進学しました。

士揮 全日本選手権はすごい上り坂のコースだったよね。あれを優勝したのはすごいなと思ったよ。

黒枝監督 こう聞くと突然頭角を現したように聞こえますが、本人、頑張ってましたからね。勝てたのは良かったです。

ソックスにも「スパークルおおいた」のロゴが付けられている

咲哉 大学に入ってからは、やっぱり兄と同じで親元を離れていることもあって、やさぐれたわけじゃないですけど、遊びの方が楽しくなっちゃって(笑)。でも、「こんなことではいけん」と毎日の練習に気合を入れ直して、2年生で一度短距離競技に転向して、チームスプリントの全日本選手権で優勝。実は兄も私も短距離の方が得意で、このまま競輪選手になろうかなとも思ったのですが、やっぱりロードレースが楽しいんですよね。2年生の時、ツール・ド・北海道の第1ステージで3位、4年生では第3ステージで2位になり、それを評価してもらって、大阪にあるプロサイクルチームの「シマノレーシング」に入りました。

コロナ禍を契機に自らのチームを立ち上げ。兄弟プロサイクリストとして活動

――小学生から自転車をやってきた兄・士揮選手。音楽一筋で高校から自転車を始めた弟・咲哉選手。共にプロのサイクリストになられたのですね。プロになってからは別々のチームで活動されたのですね。

士揮 そうですね。僕はイタリアに本拠地を置いていた「VINI FANTINI NIPPO」で2年間、主にヨーロッパで活動した後、日本の「愛三工業レーシングチーム(UCI*2登録名:AISAN Racing Team)」に移籍。そこでは主にアジアのレースに出場していました。3年後、「Team BRIDGESTONE Cycling」に誘ってもらって移籍しました。というのも当時の監督が日出暘谷高校の同級生だったんですよ。「Team BRIDGESTONE Cycling」には2年間所属しましたが、うち1年間はコロナ禍のためほとんど活動できていません。 *2 UCI:国際自転車競技連合(Union Cycliste Internationaleの略称)。スイスに本部を置く自転車競技の国際競技連盟。

咲哉 僕は「シマノレーシング」に入って3年目でコロナ禍ですね。

黒枝咲哉選手

――そして2021年、ご兄弟とお父様の3人で「Sparkle Oita Racing Team(スパークルおおいた)」を立ち上げられます。決断されたのはコロナ禍の影響が大きかったのでしょうか。

咲哉 はい。コロナ禍がなければ立ち上げてなかったと思います。

士揮 レースがなくなり、レースがなければトレーニングもしなくなり。一度、地元大分に帰ることにしたんです。帰ってから、弟、父といろんなことを話しました。「プロレーサーとしての価値とは何か」「まだまだマイナーな自転車競技を広めたい」「もっと自転車に乗る人が増えたらいいな」とか。そんな話をしているうちに「もう、自分たちでやっちゃうか」ということになりました。元々、いつか大分県にプロチームができたら、兄弟で所属したいという気持ちはあったんです。大分が大好きなので。

咲哉 そうそう。「大分にプロチームができたら兄弟で帰ってくる」という未来を思い描いていましたが、まさか自分たちで立ち上げることになるとは夢にも思ってなかったですね。僕は高校の時に優勝したインターハイも全日本選手権も、どちらも大分で開催された大会なので、特に地元に恩返ししたい気持ちが強かったんです。

――その頃、黒枝監督は大分市役所にお勤めだったんですよね?

咲哉 そうです。まさか辞めるとは。3人の中で一番のアホかもしれない(笑)。

士揮 実は最初は僕ひとりだけで、プロじゃなく、クラブチームから始めるつもりだったんです。弟はまだプロになって3年目で海外のレースにも挑戦したいだろうと思っていましたし、父は市役所に勤めていましたから。

咲哉 でもやっぱり兄弟でせっかく自転車でプロ選手やってて、地元を盛り上げたい気持ちがあるから。そりゃ僕も一緒にやった方がいいと思って決断しました。でもまさか監督が市役所辞めるとはね。

士揮 家族で最後まで止めたもんね(笑)。市役所勤めだとなんといっても安泰ですし、勤めながら手伝ってくれたらいいなというのが本音でしたね。

咲哉 そうそう。一番人の言うこと聞かない人、ここにおった、みたいな(笑)。

士揮 でも実際のところは監督がいなければ、何もできなかったですね。僕たち、自転車しかやっていなくて、いわゆる社会人経験がゼロだったので。

黒枝士揮選手

トップクラスの選手が集まったもののスポンサー探しで予想外の難航

――いざ、プロのチームを立ち上げるとなると、いろんな関門があると思うのですが、最初の関門は何ですか?

士揮 まずは選手集めですね。プロチームとして登録するには選手が6人必要なんです。幸い、僕と弟、それぞれが所属していたチームからトップクラスの選手が集まってくれました。正直なところ、大企業のチームですから、そこにいる限りは選手としては安泰です。それをリスクしかない僕らのチームに来てくれるというのですから、ありがたかったですね。

咲哉 自転車選手にもいろんな人がいて、自転車界のトップを目指す人、自転車界を盛り上げたい人、僕らのチームには、自転車界自体を盛り上げたい、自転車をもっといろんな人に知って欲しいという思いを持っている選手が集まってくれました。

クラブハウス「COLORS BIKE & CAFE」内の壁に掛けられたイタリアの自転車部品メーカーの看板

士揮 企業チームの選手である以上、自転車普及のイベントなどに参加したくても、個人では出られないというのが実情なんです。コロナ禍でチームメイトとも自転車選手としてのビジョンを語り合う機会が多くなりましたから、僕らと思いを同じくしている選手が来てくれましたね。

咲哉 全国からすごくクセの強いメンバーが集まりました(笑)。

黒枝監督 プロとしての実力も十分ある上に、新しいチームで自分の価値をしっかり作っていきたいという選手たちですね。戦績として十分誇れる日本トップクラスの選手が集まりましたから、スポンサーもすぐについてくれるだろうと思っていたのですが、そこは甘かったですね。

咲哉 やはり自転車競技はまだまだマイナーなんだってことを思い知らされました。サッカーや野球とは違うんですよね。「自転車? 競輪?」という反応も多くて。自転車競技には自転車はもちろん機材が必要で、そこには多額のお金がかかるんです。自転車業界の企業であれば、僕らのチームの価値はすぐに分かってもらえるだろうと思っていたのですが、応援してくれるのと、企業としてスポンサーになるのとでは、まったく別なんだと痛感しました。

黒枝咲哉選手

士揮 実際、僕らも企業の選手時代はただ勝てばいいと思っていましたから。でもスポンサーになっていただくにはメリットがないといけない。その他の価値となると、やはり「自転車で地元を盛り上げていきたい」という思い。そこに賛同してくださるフレームメーカーや地元企業がなんとか見つかり、クラウドファンディングも行いようやく立ち上げることができました。

咲哉 クラブハウスをカフェとして運営しているのも、ファンの人たちと触れ合える場、地元に自転車を広げる場、そしてチーム活動の収入源のひとつという側面もあります。こういう交流の場としてのカフェを持っているのは、全国にいくつかある地元密着のプロチームの中でも僕たちだけだと思います。それにSNSを積極的に活用したり、写真集を出したり。自転車に興味がない人たちにも届く発信の仕方を常に模索しています。

10月開催「ツール・ド・九州2023」。大分ステージ優勝を目指す!

――2023年10月6日から9日までの4日間、福岡県、熊本県、そして大分県を舞台にしたUCI認定のプロ自転車ロードレース「ツール・ド・九州」が開催されます。意気込みや見どころを教えてください。

咲哉 自転車競技に詳しくない方でも「ツール・ド・フランス」は聞いたことがあると思うのですが、これは21日間かけてフランスの街を回っていくレースです。スポーツの中でも街を越えていける競技というのは、自転車のロードレースだけなんですね。つまり「ツール・ド・フランス」の九州版ともいえる国際レースが開催される訳です。自転車をやってる人間としては「すごいことが起きている」という実感がありますね。2023年元日から「Sparkle Oita Racing Team」は選手10人体制になり、国際登録チームとなりましたので、もちろん出場したいと思います。

黒枝士揮選手

士揮 チームとしての目標は大分ステージでの優勝です。大分ステージのフィニッシュ(ゴール地点)は三和酒類さんの「日田蒸留所」もある日田市なんです。僕たち、日田にはよく行っているんです。日田市は「進撃の巨人」で有名な漫画家・諫山創(いさやま・はじめ)先生の出身地なので、「進撃の巨人」みたいな筋肉スーツを着て、イベントに参加したこともありました。ウエアメーカーの方も「こんなスーツ作ったことない」と驚いてました(笑)。

地元大分、しかも縁のある日田市で開催されるとあって、なんとしても優勝したいです。もちろん海外から強いチームもたくさん参加すると思います。でも僕たち「Sparkle Oita Racing Team」はスプリントのチームなので、ステージ優勝は十分狙えると思っています。

咲哉 そもそも自転車のロードレースは個人戦だと思われている方も多いと思うのですが、5人6人のチーム戦*3なんですよ。みんなで協力してチームの中の1人を1位でフィニッシュさせることを目標に、他の選手たちは時には風よけになったり、さまざまな駆け引きを行う。そこが見どころです。総合優勝を狙うチームとステージ優勝を狙うチームがあって、僕たちは後者。僕たち2人もスプリンター。他にも2022年の大会で3勝した沢田桂太郎というスプリンターもいて、誰が最後に飛び出すのか、その日のコンディションで決められる層の厚さが強みです。*3 チーム戦:サイクルロードレースは1チーム複数人で出場。1人の「エース」を勝たせるために、チームメンバーは風よけになったりペースメーカーになったりアシストする。「スプリンター」というのは、ゴールに近づいたところで集団から飛び出して、爆発的なスプリント力を武器にゴールへ駆け込むことを得意とする選手。また、山道の登りを得意とする選手を「クライマー」と呼ぶ。

士揮 観戦するとしたら、スタート地点、丘などの勝負地点、フィニッシュ地点がありますが、ぜひフィニッシュ地点で僕たちがトップで入ってくるところを見てもらいたいです。フィニッシュ地点にはオーロラビジョンが設置されてお祭り会場みたいになっているんですよ。日田には美味しい食べ物がたくさんありますからね。動画も配信されますから、ゆっくり美味しい物を食べながら観戦して、フィニッシュは生で見てください!

黒枝監督 美味しいお酒も飲みながら、盛り上がっていただけたらうれしいですね。そして、より楽しむためには「推しチーム」を作ること。これは絶対です。ぜひ、「Sparkle Oita Racing Team」を応援してください。

大分サイクルフェスのスタート直前(2022年、会場:大分スポーツ公園特設レース会場/写真提供:スパークルおおいた)大分サイクルフェスのスタート直前(2022年、会場:大分スポーツ公園特設レース会場/写真提供:スパークルおおいた)

風光明媚な大分はプロサイクリストも絶賛の自転車競技のメッカ

――九州各地を巡る国際ロードレース。楽しみです。中でも大分は自転車競技に向いているとのことですが、どういう点が向いているのでしょうか。

咲哉 少し都会、少し田舎なので、道路が広くて走りやすいですし、なにより景色がきれいです。そして食べ物が美味しくて、なんといっても温泉があります。ちなみに僕たちのチーム名の「スパークル」は、「スパークする」「スパ=温泉」「サイクル」の意味をかけた造語なんですよ。

士揮 例えば紅葉の名所、となるとその時期、混むじゃないですか。でも大分は名所じゃなくても、自転車に乗ってふと見上げると山の紅葉が美しいです。別府の方に行けば海もありますし、磨崖仏(まがいぶつ)などで有名な国東(くにさき)半島の景観も見事です。大分では自転車レースも多く開催されるので、他の地域の選手たちもよく「早く大分に行きたい」と言ってくれますよ。それに大分のドライバーの方はサイクリストに対する理解があって、追い越すときの自転車との距離感など道路を気持ちよく共有できていると思います。

咲哉 ドライバー、サイクリスト、双方のマナーの向上といったことも、僕たちプロサイクリストが取り組むべき課題だと思っています。停まっている自動車の横を自転車がすり抜けるような運転は危険なので辞めないといけませんね。「Sparkle Oita Racing Team」はチームのルールですり抜け禁止としてます(笑)。

ファンも交えてのツーリングイベント(阿蘇くじゅう国立公園内の長者原/写真提供:スパークルおおいた)ファンも交えてのツーリングイベント(阿蘇くじゅう国立公園内の長者原/写真提供:スパークルおおいた) 大分には景観を楽しみながら走れるサイクリング向きの道路が多い(久住高原/写真提供:スパークルおおいた)大分には景観を楽しみながら走れるサイクリング向きの道路が多い(久住高原/写真提供:スパークルおおいた)

自転車を通して環境問題や健康増進などの社会課題にも貢献したい

――自転車を通した社会貢献もチームの方針に掲げていますが、最後にこれらのビジョンについて、お聞かせください。

士揮 イタリアに住んでいた頃、日常に自転車を取り入れている人が多くて驚きました。カフェに行くのも買い物に行くのも自転車。自動車の代わりに自転車だとCO₂を排出しないので環境に優しい。もちろん健康にもいい。自転車を取り入れることで生活のクオリティを高めている街ってかっこいいなって思いました。日本にもどんどん浸透してほしいです。

咲哉 自転車って思っている以上にけっこう遠くまで行けるものですよね。2kmくらいなら4、5分で行けますし。それに膝に負担がかからないから、子どもから年配の方まで楽しめるスポーツだというのも魅力だと思います。

黒枝監督 公共交通機関は生活には欠かせないものですが、これからは人口が減少する時代。特に人口の少ない集落などではバス路線の維持などは厳しいかもしれません。そういう時にも自転車はおおいに役立つと思っています。プロのレーシングチームとしてもますます自転車の普及に取り組んでいきたいと考えています。

黒枝美樹監督兼GM(右)と黒枝兄弟
黒枝士揮(くろえだ・しき)

PROFILE

黒枝士揮(くろえだ・しき)

プロサイクリスト、3SEEDS株式会社代表取締役
1992年、大分市生まれ。小学生時代から自転車競技に取り組む。高校、大学と競技を続け、大学卒業後はプロサイクリストとして国内外のロードレース大会で活躍。2021年1月に父・黒枝美樹さん、弟・咲哉さんと共に大分発の地域密着型プロサイクルチーム「Sparkle Oita Racing Team(スパークルおおいた)」を創設。同チームの運営会社「3SEEDS株式会社」では「OITAサイクルフェス!!!」などの自転車普及のイベントにも参加するほか、クラブハウスも兼ねるカフェ「COLORS BIKE & CAFE」も運営している。

黒枝咲哉(くろえだ・さや)

PROFILE

黒枝咲哉(くろえだ・さや)

プロサイクリスト、3SEEDS株式会社取締役
1995年、大分市生まれ。中学校まではピアノに没頭していたが、高校入学時から自転車競技部に入り本格的にロードレースに取り組む。大学卒業後、プロサイクリストとして活躍。2021年1月に父・黒枝美樹さん、兄・士揮さんと共に大分発の地域密着型プロサイクルチーム「Sparkle Oita Racing Team(スパークルおおいた)」を創設。2023年10月に初開催となる「ツール・ド・九州2023」に兄・士揮選手と共に参戦、大分ステージでの優勝を目指している。

黒枝美樹(くろえだ・みき)

PROFILE

黒枝美樹(くろえだ・みき)

「Sparkle Oita Racing Team」監督兼GM
1967年、大分市生まれ。1988年、大分市役所に就職後、市役所の先輩に誘われ、趣味で自転車競技に参加してきた。2021年1月、2人の息子と共に大分発の地域密着型プロサイクルチーム「Sparkle Oita Racing Team(スパークルおおいた)」を創設して、監督兼GMに就任。チームの運営を担当している。