九州自然動物公園アフリカンサファリ園長/獣医師神田 岳委
国内に現存するサファリパークの中で最も古い歴史を持つ、大分県宇佐市の「九州自然動物公園アフリカンサファリ」。30年前に獣医師として同園で勤め始め、今は園長の神田岳委(かんだ・いわい)先生は、大いなる動物愛と親しみやすいお人柄、軽快なトークで、メディアや学校講演会にも引っ張りだこです。動物たちの幸せを第一にする飼育姿勢、動物たちとの奮闘エピソードなど、楽しいお話をたくさん伺いました。
文:青柳直子 / 写真:三井公一
――1976年、宇佐郡安心院(あじむ)町(現在の宇佐市安心院町)に「九州自然動物公園アフリカンサファリ」(以下、アフリカンサファリ)が開園しました。当時はまだ珍しかったサファリパークをこの地に開園した経緯について教えてください。
創業者がアフリカに行った時、この広大な土地を日本のどこかに再現し、日本の子どもたちに見せたいと思ったそうです。そして場所探しのため日本中を周っていたところ、由布岳と鶴見岳の山容が、タンザニアからケニアにまたがるキリマンジャロっぽく見えて、「ここにアフリカを作りたい」と思ったと聞いています。もう1つの候補地だった富士山のふもとに1980年に開園した「富士サファリパーク」は兄弟園です。
国内初のサファリパークは1975年に開園した「宮崎サファリパーク」ですが、1986年に閉園したため、このアフリカンサファリが現存するサファリパークの中で一番歴史が長いんです。
――開園当時はどのような動物がいましたか。
当時の方が動物の種類は多かったのですが、外国から連れてくると、やはり環境に慣れない子たちがどうしても出てきます。この地で繁殖できる種をきちんと飼育していった結果、今の動物種になりました。
アフリカでは昼は気温30度、40度になりますが、朝は5度というエリアもあって、温度変化が激しいんです。ですからケニアから来た動物たちは日本の温度変化には耐えられますが、問題は湿度です。特にケニアのサバンナ地帯は湿度が低くカラッとしていますから。
動物って汗かかないんですよ。汗びっしょりのライオンとか見たことないですよね? 動物たちは暑くなってオーバーヒートしそうになったら、息をハッハさせて体温を下げようとしたりしますが、基本、動かなくなるんです。そうすると熱が体内にこもり、調子が悪くなる子たちが出てきてしまいます。
そのような環境で繁殖して、ライオンなら一番長く繁殖が続いている子で5代目。血統をコントロールして強い子同士を繁殖させますから、遺伝的な要因もあって、今では日本の気候に対して平気な子がたくさんいます。
もちろん、水路を掘って涼しい場所を作ったり、木を植えて木陰を作ったりと環境も整備しています。もともとは本当に何もない草原でしたので。
――今いる動物の中で一番長くて5代目とのことですが、今現在、アフリカ生まれの動物はいますか。
みんなここで生まれた“安心院ネイティブ”の子たちですよ。開園から約50年経ちますので、初代の子たちももういないですしね。
新しい種類の動物の導入を検討する際は、まず現地に行って、動物園で研修して、どの動物がうちの環境に合うのか合わないのかを判断します。結論が出るまでに4、5年はかかります。園としての使命は適正な飼育の維持と繁殖ですので、種類を増やすことより、今いる子たちをきちんと飼育していくということです。
――今いる動物たちにとってこの地は、どのような点がよかったと思われますか。
1頭あたりの広さをキープできているのは動物にとってよい点です。開園当時よりさらに広くなっていますしね。ただ広すぎて動物が集まってもあまり多く群れているように見えないことがあるんです。飼育と展示のバランスをとるのは難しいことですが、うちに来てくださるお客様は「広くていいね」という感じでご理解くださっています(笑)。
――展示にご理解のあるお客様たちとのことですが、地元・大分の人たちにとってアフリカンサファリはどのような存在なのでしょうか。
保育園、幼稚園、小学校などのバス旅行で必ず1度は足を運ぶ場所だと思います。もちろんご家族で来られる方も多いです。私が最初に来たのは確か、幼稚園から小学校低学年の頃で、家族で来たと思います。
――神田先生は子どもの頃から動物好きだったのですか。
はい、子どもの頃から大好きでした。私は大分県臼杵(うすき)市の田舎の出身で、田んぼに行けばカエルがいるし、ニワトリは放し飼いされているし、ヒツジもヤギもいるような環境でした。なかでもヘビが大好きで。アオダイショウをポケットに入れて連れて帰って布団の中に入れて寝たら、父母祖父母に怒られましてね(笑)。
犬も大好きで飼いたかったのですが、父には「自分で面倒をみられるようになったら」と言われ続けていました。小学校1、2年生の頃、近くで飼われていた秋田犬のところに行ったんです。なんだか呼ばれたような気がして近寄ったら、噛まれて犬小屋に引きずり込まれました。この秋田犬、フジという名前で、近所でも有名な猛犬だったんですよ。ご主人が助けに来てくれたんですけど、噛まれたのは服だけ。フジにとって僕は遊び道具というかペットだったんですね。
父母からは叱られましたが、そんなことはおかまいなしで、僕はフジと仲良くなって、ついにはフジの上にまたがって散歩に行くまでになりました。近所で恐れられていた犬なので、僕は「フジに乗った少年」として有名になりました(笑)。本当に幸せな体験でした。自分より大きな動物に対する憧れや親しみは、この時生まれたのかなと思っています。
そして小学校3年生の頃、父が柴犬を拾ってきて「この子犬が川に流れていた。お前が飼えるんだったら飼育しよう。飼えないんだったら川に流そう」と桃太郎みたいなめちゃくちゃな話をするんですよ。そんな選択肢ないでしょう? 当然僕は「飼う!」と言いました。父も大の犬好きだったので飼いたかったと思うのですが、今考えると僕に選択させて犬を飼うことの責任を持たせたんだと思います。その柴犬は「犬」と書いて「ケン」と名付けました。「神田犬」って字の据わりがいいし、かっこいいじゃないですか(笑)。
ケンとは遊びに行くのも寝るのもいつも一緒でした。ある日、学校から帰るとケンが痙攣(けいれん)を起こしていたんです。父が牛や馬を診る大動物の獣医さんを呼んでくれました。田舎なので犬や猫を診る小動物の獣医さんがいなかったんですよ。
うちに来てくれた大動物の先生はかなりのご高齢でしたが、ケンを見た瞬間「あ、これはダメだ死ぬな」と。もちろん僕は「死んだらダメなんです、助けてください」と懇願しました。先生は50mLの大きな注射器で注射してくれました。そしたら30分後にケンの首が上がって、1時間後には立ち上がって歩き出したんです! 自分も獣医になった今なら、ケンがおそらく何かを食べて食物アレルギーを起こしていたのだろうと見当がつくのですが、その時、失礼ながらヨボヨボに見えた先生が、帰る頃には魔法使いに見え、僕は「この仕事がいい! ケンを助けたい」と思ったんです。
――愛犬を救ってくれた獣医さんとの出会いが神田先生の将来を決めたのですね。
そうですね。父も母も「やりたいことをやればいい」と言ってくれたので、東京の日本獣医畜産大学(現・日本獣医生命科学大学)に進学しました。6年制だったのですが、僕は大学が大好きだったので、みんなより1年多く勉強して(笑)、7年かけて卒業しました。
――地元・大分に戻り、アフリカンサファリに就職されたのはどうしてですか。
獣医師免許の国家試験を受けた後、実家の母から、父が心臓の状態がよくなくて、入院したと聞かされました。私は長男なので、大分に帰ろうと思いました。公務員試験はもう終わっていましたし、やはり現場に出たいと思って、そういえばアフリカンサファリには自分の大好きなライオンがいたなと。さっそく電話をかけて人事につないでもらったら、めちゃくちゃ叱られたんですよ。「君のために教えるけれど、4月から働きたいのに3月に電話をしてくるなんて常識ないよ」って。
でもその人事担当者がとてもいい人だったんですよね。「ところで君は何をしたいの? 飼育だよね?」と尋ねられたので、「今、獣医の国家試験を受けて、合格発表待ちです」と言ったら「国家試験通ったら4月から来てください」とあっという間に就職が決まりました(笑)。入社してから知ったのですが、私が電話をした前日に、当時の獣医さんが退職届を出されたそうなんです。それで就職が決まって大分に帰ってきたら、父が家にいたんですよね。確かに入院はしたようなのですが、実のところはただの検査入院で、私を大分に連れ戻すための口実だったのではないかと、今でも疑っています。
――入社されてからのお仕事は順調でしたか。
楽しくはやっていましたけれど、夢に描いた世界とは全く違っていました。「園内を歩いてたらキリンがついてきてくれるかな」とか「ゾウに乗ったりできるかな」なんて思っていたのですが、動物たちからは徹底的に嫌われるんです。獣医師って動物からしたら嫌なことしかしない存在なので。
飼育係の方たちにもずいぶん叱られました。地元雇用で農業との兼業の方が多かったのですが、私が入社した時点で開園から20年経過していましたので、開園当初から働いていた飼育係も当然勤続20年のベテラン。動物のことについては私よりもよっぽどよく知っているわけです。誰も「先生」なんて呼んでくれず、「何も知らないヤツだな」みたいな感じでした。飼育は職人の世界なんですよ。
悔しさもありましたし、自分の無知も自覚しました。ですから最初の1、2年は飼育の仕事から始めました。教科書的な当たり前じゃダメなんです。この子にとっての当たり前、例えば動物の便の状態1つとっても、いつも柔らかめだとか、そういうことを知らないと治療なんてできません。
獣医師が見て調子が悪そうだという時はすでに重篤な状態なんです。なぜなら野生動物は基本的に病気を隠すからです。獣医師の仕事は小児科医に似ているなと思うことがあります。自分で話せない子ども=動物を保護者=飼育係が連れて来てくれて、「昨日から様子がおかしい」などの説明を受けて初めて診察ができるからです。
まあそんな風に飼育係の方に教えを受けながら始まった獣医師生活ですが、まもなくもう1人の獣医師が退職して、私1人になりました。幸い私は人に聞くのが恥ずかしくないタイプなので、動物園がある「別府ケーブルラクテンチ」の先生や、県内の開業医の先生方、山口や熊本の動物園の知り合いの獣医師にたくさん教えていただき、助けていただきました。かわいがっていただきましたし、本当にありがたかったです。
――アフリカンサファリにライオンがいたことが就職の動機の1つだったとお聞きしましたが、神田先生のライオン愛はいつからですか。
子どもの頃に手塚治虫のテレビアニメ「ジャングル大帝」を再放送で見て、ライオンにそこはかとない憧れがありました。「百獣の王かっこいい」みたいな感じです。祖父の代から野球のライオンズファンというのもあったかな(笑)。今は「埼玉西武ライオンズ」ですけど、昔は福岡が拠点の「西鉄ライオンズ」だったんですよ。
獣医学部で勉強していくと、ライオンのかっこよさと優しさに感心しました。ライオンって群れを大切にしますし、オスも子育てをしますし、カップルになるとハネムーンに行くんですよ。ディズニーの「ライオン・キング」にライオンのカップルがオアシスをデートするハネムーンのシーンがありますが、あれは本当です。
獣医師として就職してからも、ライオン同士をお見合いさせたりしているうちにどんどん好きになっていきました。かわいらしさとかっこよさ、強さと優しさ、全部持っていて完璧なんです。だからこそ百獣の王なんです。トラは強いですが少し優しさが足りないと思うんですよね(笑)。
――お見合いをさせるうちにますますライオンが好きになったとのことですが、ライオンの繁殖にはどのような特徴があるのでしょうか。
ライオンのオスでとにかくモテるヤツがいるんですよ。モテるヤツがなぜモテているのか、「タテガミがちょっと大きい」とか「いや、そうでもない」とみんなで分析するんですけど、ある時、理由が分かったんです。
ライオンをはじめ、ネコ科の動物は交尾排卵動物といって、交尾の刺激によって排卵されるのですが、交尾には痛みが伴います。夜中にネコの「ギャー」という声を聞いたことがあると思いますが、おそらくそれはその痛みによるものです。ライオンのオスは、交尾後に痛みを訴えるメスからの攻撃を避けるため、ピューッと逃げていくことが多いのですが、そのめちゃくちゃモテるオスは動かずメスの横にいて、そっと手を乗せたりしているんですね。それを発見した時はみんなで「それかー!」と叫びました。
少し話がそれてしまいましたが、ライオンの繁殖を成功させるには、個体の特徴をよく観察して、もちろん生態に関する知識を持って、季節の変動などの要素も加え、その個体を理解する精度を上げていくことが大事です。
サファリパークとして、動物たちが幸せに思う環境を作り、お客様に見て楽しんでいただくことのほかに、繁殖できているということが、よい飼育をしている一つの証しです。今、日本国内の動物園ではオスだけ、メスだけの飼育は許可されていません。うまくペアリングできなかった時に他の園へ連れていって繁殖が成功したこともあります。そのように、結果的に他の園の方が繁殖に適していたという理由でうちの園からいなくなってしまった動物もいますが、園にとっての優先順位は繁殖が上です。
飼育環境との折り合いから繁殖を止めざるを得ない園もありますので、うちや「富士サファリパーク」、「群馬サファリパーク」さん等、たくさん飼える園が引き受けて、数を増やしていくと同時に血統をコントロールしています。
――日本国内のライオンの繁殖は順調なのですね。一方でアフリカではライオンの数が減っていると聞きます。
そうなんです。アフリカでは百獣の王が絶滅の危機に瀕しています。いつか、安心院生まれのライオン、ゾウやキリンをアフリカに、というのが大きな大きな夢ですね。安心院生まれの子たちは安心院弁なので、話が通じるか心配ですけれど(笑)。
――神田先生は、大分県内の学校などで「命の授業」をされています。どのようなことを子どもたちに伝えているのでしょうか。
動物を見て怖いと思われるより、かわいいねって言われたいし、強いねって言われたい。そのために我々しか話せないようなことがあるような気がしています。
今、動物を飼いたいっていう学校はたくさんあります。でもコロナ禍や鳥インフルエンザなどの影響もあって、動物を飼うことができる学校が少なくなっています。私が学校で話をさせてもらう時、基本、動物は連れていきません。ただ触るだけのモノになってしまってはいけないからです。
動物は飼い主を選べないし、飼ってから死ぬまでの間、動物が幸せになるかどうかは私たち飼育者の責任が大きいです。私たち動物園が新しい動物を飼うまでに何年もかけて準備するように、家で飼う時も同じ心構えが必要だと思うんです。本当にちゃんと世話をして、最後まで飼うことができるのか。私が子どもの頃、父から言われた「自分で面倒をみられるようになったら」という言葉、今になってよい教育をしてもらったと思っています。
急きょ保護して飼う場合は別として、テレビなどでブームになったからといって「欲しい! 飼いたい!」ではなく、飼う前から飼育は始まっているんだよということを伝えています。
――神田先生のこれからの目標を教えてください。
私が勤めていられるこれからの5~10年の間で何ができるか考え、その間にシマウマの数を現在の14頭から50頭くらいにはしたいというのが目標です。ライオンと同じように繁殖を止めている園がありますので、全部引き受けたいと考えています。
アフリカには何度も行っていますが、現地の人にとってシマウマの群れといえば、千、万単位なんです。シマウマのシマ柄には諸説ありますが、群れが肉食動物に襲われた時、あちこちに逃げたらシマ柄がチラチラしてどこにいるか分からなくなり逃げられる、というのが有力な説です。
今、日本国内でシマウマを群れで飼育している園はありませんので、うちが群れ飼育をして、“シマウマのシマ柄がチラチラする”のを見ることができる展示をしたいと考えています。
シマウマは麻酔が少ないと効かず、少しでも多すぎると死んでしまうという、治療が難しい動物です。ですが、チーターを追いかけ回すほどの強さがあったり、自分の子を守るために他の子に意地悪してみたり、とても面白い動物なので、みなさんにも興味を持っていただけるよう、群れ飼育実現のために尽力するつもりです。
――最後に改めて、この安心院の地で多くの動物を飼育することの意義を教えてください。
動物が、エサを食べたい、遊びたい、日陰に入りたいなど、行動の選択肢を増やすことができているのは、この広大な土地だからこそだと思います。繰り返しになりますが、動物たちが幸せに暮らすことができる環境づくりは私たち人間の責任です。
地元との連携という点では、耕作放棄地を利用してサトウキビを栽培し、うちのアジアゾウのエサにするプロジェクトが若手農家によってスタートしています。また、竹田(たけた)市の久住高原農業高校が授業の一環で牧草「チモシー」を試験栽培し、それをうちの草食動物のエサとして無償提供していただいています。将来的には竹田の農家での生産も視野に入れているそうです。
このように安心院の自然や地元の方たちの恩恵を受けながら、多くの人に愛される園にしていきたいと思っています。
PROFILE
神田岳委(かんだ・いわい)
1969年、大分県臼杵市生まれ。1995年3月、日本獣医畜産大学(現・日本獣医生命科学大学)卒業、獣医師資格取得。同年4月、九州自然動物公園アフリカンサファリを運営する九州アフリカ・ライオン・サファリ株式会社入社。同社専門獣医師。2020年5月、取締役園長に就任。大分県獣医師会学校飼育動物担当として「命の授業」などを行う。著書に、大分合同新聞の連載「獣医さんの観察記」を再編集した「サバンナに生きる-獣医さんの野生動物観察記」(大分合同新聞社)、獣医師ならではの視点で撮影しSNSに投稿した写真を集めた写真集「もふもふ日誌~仔トラと仔ライオン、ときどきウサギ~」(リブレ)。