「劇団 青年座」施設内の会議室で語る石丸謙二郎さん

私のとっておきの大分 第13回【後編】人間って誤解するとですね、力が出るってことが分かった

俳優・ナレーター石丸 謙二郎

「世界の車窓から」(テレビ朝日系)のナレーター、「石丸謙二郎の山カフェ」(NHKラジオ)ではカフェの「マスター」、そして数多くのテレビや舞台で活躍される石丸謙二郎さん。30代にウインドサーフィン、40代に岩登り、60代に絵画やピアノを始めた経験から、新しい習い事は高齢者にこそ向いていると断言します。その理由とは。「世界の車窓から」出演のきっかけ、大好きな大分の魅力などを語っていただきました。 前編はこちら 写真:三井公一

ナレーションの仕事はオーディションで全部落とされた

――「世界の車窓から」は石丸さんの親しみやすいナレーションがいつまでも耳に残っています。1987年から36年間続く長寿番組ですが、始まった頃にこれほど長く続くと思われましたか。

僕どころか番組のプロデューサーも思っていなかったんでは。放送回数は1万800回くらいになります(2023年11月現在)。僕が33歳の時に始まりましたが、きっかけはその2年ほど前の「おーわらナイト」(テレビ東京系)という番組でした。スポーツ選手とか、いろんな新人を応援するドキュメンタリー番組で、そのナレーションをやらせてもらいました。

所属事務所の近所にある絵の楽しい地下道所属事務所の近所にある絵の楽しい地下道

実はその前まで僕はナレーションの仕事をやったことがなかったんです。声が悪いという理由でオーディションで全部落とされていた。そんな時に、「おーわらナイト」のプロデューサーが声をかけてくれた。つかこうへい事務所の仕事で関わりのあった人で、僕の声を気に入ってくれていたみたいです。

「おーわらナイト」の最初の音入れテストの時は、ガラスの向こう側にいるスタッフみんなが頭抱えてるんですよ。それまで何回もそれがあったから、「ああ、また駄目だ」と思いました。ところが、プロデューサーが、「俺がこの人でやると決めたんだから従え。もしこの人が将来ナレーションの仕事をちゃんとするようになったら、お前たちどうするんだ」って言ってくれてね。

――声が悪いと言われたというのは、意外な気がします。

その当時は、矢島正明さんとか、城達也さんとか、低めの声できちんとしゃべれる方がナレーションをやられていました。僕の声はその頃、声変わりする前なんじゃないかってくらいかなり高かったんですよ。それでも続けているうちに、番組スタッフも「これありだな」みたいになっちゃった。

その「おーわらナイト」を、「世界の車窓から」のプロデューサーがたまたま見てくれて、「この人、変わった声なんだけど、楽しそうじゃない?」って呼んでくれたらしいです。

初回は音入れのテストをやったんですよ。ところが2回目からはね、全くテストなし。未だにテストなしのぶっつけ本番です。テレビの画面ってちょうど列車の窓みたいでしょう。スタジオで収録動画を見ながらナレーションを入れていく。僕は列車が大好きだし、しゃべりながらも本当に客として窓の外を眺めるような姿勢でやっています。

この36年間に4回ほど「世界の車窓からスペシャル」という特番で撮影現場に連れて行ってもらいました。自分でカメラに映って、自分でナレーションをしました。「お、食べたね。美味しそうだね」って。それって自分じゃないか(笑)、まあいいかって、テレビで遊んでました。

「世界の車窓から」を長くやらせてもらえている理由の1つは、この間、風邪もひかず、大病もしなかったことが大きいです。レギュラー番組をやっていると、1回くらいは休むらしいんですよ。代打が出て、出たらその人に代わっちゃうっていうのが定石で。まあテレビの世界ってそういうもんだと思うんだけど、なんせ僕は倒れないから(笑)。

「劇団 青年座」施設内の会議室で語る石丸謙二郎さん

ウインドサーフィン歴は30年以上

――風邪をひかないために、何か特別なことをされていますか。

若い時は風邪ひいていましたよ。ところが、37歳からウインドサーフィンを始めたら、ぱたっとひかなくなった。真冬でも冷たい海に入るし、潮風をずっと受けているのがいいのかな。

――ウインドサーフィンを始めるきっかけは何だったのですか。

僕って意外に物を覚えるのが速い方なんですよ。ですから、なかなか覚えられない、奥が深いスポーツで、1年中できて、1人でできるものはないかなってずっと探していました。そこでウインドサーフィンを知ったんです。もう33年続けています。はまりました。

山登りも続けていますよ。仕事で登ることもあるけれど、それは僕が山に登る回数の100分の1ぐらい。今、年に30から50回くらい登っているけれど、ほとんどプライベートで行っています。プライベートで山歩きをしているついでに録音したものを「石丸謙二郎の山カフェ」で流したりもしています。

ウインドサーフィン歴はもう30年以上になる(写真提供:石丸謙二郎)ウインドサーフィン歴はもう30年以上になる(写真提供:石丸謙二郎)

僕って気づくのが遅いし誤解も多い

――21歳の時に役者の道を進むため退路を断った際に山登りを封印した(前編参照)とのことでしたが、その封印を解いたのはいつ頃ですか。

はっきり解いたのはね、岩登りを始めた47歳の時です。ウインドサーフィンも岩登りも、始めた年齢は一般的に言って遅いですよね。そういえば、僕はなんでも遅いんですよ。で、物事に気づくのも遅いんです(笑)。芝居の演技でも大体10年後ぐらいに気づくんですよ。「あれ、そういう意味だったのか」って。

自分が主演した作品でもそんなことがありました。20分ぐらいのシーンを全然誤解してやってたとかね。あまりにも恥ずかしいから言えないじゃないですか。自分の出世作でもあるのに。でもその時の演出家の長谷川康夫には話しました。そうしたら、「俺は知ってたよ。お前が気づいていないだけなの」って。誤解してやってるのが面白いから、そのままにしといたと。「寝盗られ宗介」という、つかこうへいさんが僕のために脚本を書いてくれた作品なんですけど。

「劇団 青年座」施設内の会議室で語る石丸謙二郎さん

――誤解、強い思い込みですね。

実は僕は今になって、人間が誤解することはものすごく良いことだと思ってるんですよ。誤解した方が、面白いものができる。例えば、4年前にスポーツ用品メーカーのモンベルさんが、「野筆セット」という新商品を売り出して、僕に提供してくれたんです。

中にはすずりと墨と筆が入っていた。早速、スケッチブックを買ってきて、墨絵を描き始めたんですよ。山に行くたびに絵を描いていたらスケッチブックがすぐ3冊ぐらいになって。それをモンベルの方がちょっと見せてくださいっていうから、お持ちしたら、「石丸さん、文字は?」って言うんですよね。

つまり、野筆っていうのは、芭蕉とか山頭火みたいに野に出て俳句をしたためるためにモンベルが開発した商品だったんです。それなのに文字ではなく絵を描いたって社員の方が笑っていました。これを見たモンベル会長の辰野勇(たつの・いさむ)さんが、「岳人(がくじん)」(発行:ネイチュアエンタープライズ)という雑誌で、毎月この絵を描いてエッセイを書いて連載しませんかって言ってくれて、もう4年半ぐらい連載を続けています。完全な誤解から始まりました。

それまで僕は墨と筆で絵なんか描いたことありませんよ。つまり人間って誤解するとですね、力が出るってことが分かった。墨絵って言ってるけど、師匠がいない自己流。例えば水墨画なら基本技とか手法があるじゃないですか。僕は描く手法も自分で考えるしかない。自由に考えるから面白い。その後、絵にもはまって、例えばハンミョウというきれいな昆虫を描いて色をつけてみたり。ついでに昆虫採集に出かけた子どもを主人公にした物語を描いています。

  • 「岳人」に寄稿している石丸謙二郎さんの絵と文章の連載ページ「岳人」に寄稿している石丸謙二郎さんの絵と文章の連載ページ
  • 最近は墨一色だけでなく絵筆で彩色も始めた。ハンミョウと右下に子どものイラストが描かれている最近は墨一色だけでなく絵筆で彩色も始めた。ハンミョウと右下に子どものイラストが描かれている

――60代半ばから絵画やピアノを始められたのですね。

何かを始めるのが遅い方がいいこともあるんですよ。例えばね、年齢がいってから習い事を始めると、人から怒られることが少なくなる。若い時って怒られやすいですよね。だから僕はみんなに言うんです。何か始めようと思ったら、50歳過ぎてから始めなさいって。

実は高齢になってくると、長年の経験で、人が何を言おうとしているかが分かるようになる。若い時は分からないから言われたままやるでしょう。年齢いくとみんな言われたことを咀嚼(そしゃく)してから、自分なりのやり方でやる。だから覚えが早い。

それから高齢者は向上心が若い人より強いんです。ほかにすることないから、そればっかり(笑)。教えたこと以上のことを予習復習して全部やってくる。若い人は恋愛とかしなきゃいけないから時間が少ない。忙しいですよね。

僕がピアノを始めたのは66歳頃。墨絵を始めたのとほぼ同時期です。楽譜も読めないんですが、1曲ぐらいなんか弾きたいなと思い立った。そこで、自宅の近所に住むウインドサーファーでジャズピアニストの塚原小太郎さんという有名な方に頼んで教えてもらうことにしました。

50年くらい前に穂高連峰を登った時、北穂高岳の頂上3100 mの場所に山小屋があって、そこには真空管のアンプのステレオがありました。登ったのが嵐の日で客は僕1人で。管理人の方がレコードをかけてくれたのが、ドビュッシーの「月の光」だった。ちょうど雨がやんで穂高連峰の上に満月が現れて、それを聞きながら素晴らしい曲だなと思って。6分ぐらいの曲なんです。

「劇団 青年座」施設内の会議室で語る石丸謙二郎さん

その曲を弾けないかなって塚原さんに相談したら、やってみますかってことになって。基礎教本もやらず、ドの位置も分かりません。1小節ずつ、右手はこれで、左手はこうでというやり方で、7カ月間教えてもらったんですよ。家に中古のアップライトのピアノを買い、電子ピアノも買って車の中に入れといて、ドラマの現場の休み時間、控え室で練習する。キャンプ場でも練習しました。

いちおう人前でも弾けるようになりました。大きい劇場だとものすごく高価なピアノが置いてありますよね。それを弾かせてもらったり、最近は各地に街角ピアノがあるでしょう。もう100カ所以上で弾いています。観客からは後ろ向きだから誰が弾いているか分からないし。ただし1曲しか弾けないからアンコールが受けられない(笑)。

最近、ピアノが置いてある山小屋を7カ所見つけたんです。そこに行って弾く。くじゅう連山にある法華院(ほっけいん)温泉山荘にもあるんですよ。皆さんの夕食が終わった頃に、「失礼します。ちょうど今満月ですから」って言って弾いたりします。

長野県・北八ヶ岳の山小屋「黒百合ヒュッテ」でピアノ演奏披露(写真提供:石丸謙二郎)長野県・北八ヶ岳の山小屋「黒百合ヒュッテ」でピアノ演奏披露(写真提供:石丸謙二郎)

――やることがたくさんおありですね。さらに本やブログの執筆もされている。石丸さんのふだんの生活のリズムはどんな感じなのですか。

オフの日は、基本的に午前中、山に登り、午後にウインドサーフィン。その途中にピアノもやるし、絵も描く。ある日は早朝夜明けからSUP(サップ)⋆1で釣りに出ることも。その後風が吹いてきたらまたウインドサーフィンをしたり。それから荷物を置いて、山登りに行くとか。夕方帰ってきたら友達を呼んで、さっき釣った魚を料理して食べてもらう。そこまでがワンサイクル。*1 SUP:スタンド・アップ・パドルボードの略。サーフボードの上に立って、1本のパドルで左右を交互に漕いで海や池、川などの水面を進むスポーツ。

サップで出かけた釣りの成果(写真提供:石丸謙二郎)サップで出かけた釣りの成果(写真提供:石丸謙二郎)

家を離れてもやっぱり海に出かける。だから自家用のハイエースの中は海や山の遊び道具が満載です。自転車も積んでいる。山に行ったら、山の横のキャンプ場に泊まり、そこから仕事に直行して、終わったら、そのまま遊びに直行することもあります。

予定がなければふだんは夜明け前に起きます。日時計に従っているみたいな感じ。自宅で日の出を見ながら、ちょっと書き物をしたり。朝ごはんの基本は素食で、納豆や干物など20~30品目ぐらい食べるようにしています。

大分県に生まれて良かったと思う

僕は大学入学で上京するまで、大分県内23カ所、23の家に住みました。親父が銀行員で引っ越しばっかりしてたから。社宅はあったけれど、一般の人が住めないような武家屋敷とか、つぶれた国際旅館とか、そんなところを借りて住むもんだから、とてつもなく広い家や、古い家にも住みました。面白かったですよ。

今は日本中の宿を旅してるから、いつかプロフィールには日本出身って書こうと思っているくらい。日本中好きですからね。でも僕は日本の中でもとりわけ大分県に生まれて良かったなって思っています。

――大分のどんなところが良かったですか。

自然の魅力、人の魅力ですね。仕事やプライベートでも日本全国、津々浦々行ってみて、山にも行くし、海でも遊んでいるけれど、それと比べてみても大分県の自然は極端に優れていると思います。

まずは大分には代表的な海が3種類あります。一つは中津から宇佐にかけて干潟になる海。豊かな漁場です。次に別府湾。別府の温泉が入り込む砂地(すなじ)の海岸。こちらも豊かな漁場を抱える富んだ海です。そして佐賀関(さがのせき)から佐伯(さいき)につながる、ギザギザのリアス海岸。

そして山も極端にいい。大分県は日本一トンネルの数の多い県と呼ばれるほど山が多い。久住山を筆頭に、由布岳(ゆふだけ)、鶴見岳など、火山性の地球の自然を感じられる山があって。まだ煙噴いてますしね。そうかと思えば、中央構造線をはさんで大分から祖母山(そぼさん)につながる、石灰岩とか花崗岩(かこうがん)とか場所によって全然地質が違う山もあります。3000 m級の山はないけれども、冬には久住山は雪をかぶりますし。豊かな山、豊かな海をこぢんまりした土地に持ってるという珍しい県ですよね。

小学生の頃から慣れ親しんでいるくじゅう連山(写真提供:石丸謙二郎)小学生の頃から慣れ親しんでいるくじゅう連山(写真提供:石丸謙二郎)

最近、国東半島で古くから行われてきた仏法修行の「六郷満山峯入行(ろくごうまんざんみねいりぎょう)」のコースをベースにした「国東半島峯道(みねみち)ロングトレイル」という山歩きのコースが発表されました。紀伊半島の大峰巡りみたいな修験道をちゃんと約135kmを歩ける。僕はつい20年前まで歩いていたんだけど、まだ未整備部分が多かったんですよ。藪漕ぎ(やぶこぎ)*2をしたり、岩の上から落っこちそうになりながら歩く道に、標識を立てて、地図も作って約135kmをつなげてくれた。国東半島では、800年から900年前の磨崖仏(まがいぶつ)*3とか、かなり迫力あるものが見られます。日本全国の磨崖仏のうち6~7割が大分県にあるそうですよ。*2 藪漕ぎ:道なき道を、草木をかき分けて進むこと。
*3 磨崖仏:自然の岩壁や露岩や転石に造立された仏像。

――大分の人に感じる魅力とはどんな点ですか。

いったん外へ出てみたから分かるんだけれど、なんてお人よしなんだろうと思いますね。大分県の人達には、押し売りが成り立たないらしい。押し売りって最近あまり聞かないけれども、昔は玄関框(げんかんかまち)に上がり込んでなかなか帰らない。しょうがなく根負けして買わされてしまう。

山小屋の「マスター」を務めるNHKラジオ「石丸謙二郎の山カフェ」のポスター山小屋の「マスター」を務めるNHKラジオ「石丸謙二郎の山カフェ」のポスター

ところが、大分の人は押し売りが来ると、家の中まで入れてお茶まで出して積極的に聞くそうです。押し売りもうれしいからしゃべるでしょう。30分も1時間もしゃべったあげくに、「あ、うちそれいらない」って。押し売りが「ちょっと待ってよ。じゃあ最初に言ってくれよ」っていうぐらいね。もう押し売りも帰っちゃうような、そういう人のいいところがまだ残っている。

4、5年前から出演しているNHK大分放送局のローカル番組「石丸謙二郎のおおいた彩発見」は、大分の彩り豊かな魅力を再発見する旅企画です。大分県内を巡り、完全飛び込みで、人の家に上げてもらい話を聞く番組ですが、普通、東京とかだったら家には入れないですよね。石丸謙二郎って分からない人もいるわけだし。時にはご飯食べさせてくれますからね。大丈夫かなって逆に心配になっちゃう。僕が悪い人だったらどうすんのって(笑)。

「劇団 青年座」施設内の会議室で語る石丸謙二郎さん

あと、大分の人の吉四六(きっちょむ)さん*4体質が、僕にもあるみたい。危機的状況の時に笑いを取ろうとするっていうね。吉四六さんは頓知(とんち)で笑かしたりして、喧嘩や争いをなくそうとした人だから。その体質なんですよ。争ってるのが嫌いで。みんなが緊張してクーッてなってるのがあんまり好きじゃない。大分弁で「どうくる」って言います。「お前どうくっちょんのか」とか言うと、ふざけてるのかっていう意味。

あの言葉、多分「道化」から来てるよね。「石丸はいつも、どうくっちょんのぉ。お前、今日葬式やぞ」とか言われて。「葬式でポコポコ叩いちょる坊さん笑かしてどげすんのか」みたいなね(笑)。 *4 吉四六さん:大分に伝承される民話の主人公。吉四六は頓智を働かせて数々の危機を乗り越える。江戸時代初期、豊後国野津院(現在の大分県臼杵市野津町)の庄屋だった廣田吉右衛門(ひろた・きちえもん)がモデルという説がある。

「劇団 青年座」施設内の会議室で語る石丸謙二郎さん
石丸謙二郎(いしまる・けんじろう)

PROFILE

石丸謙二郎(いしまる・けんじろう)

1953年生まれ、大分県出身。1978年、つかこうへい事務所の舞台「いつも心に太陽を」でデビュー。1987年から現在も続く「世界の車窓から」(テレビ朝日系)のナレーションを務める。2018年から「石丸謙二郎の山カフェ」(NHKラジオ第1、毎週土曜8時5分)で「マスター」としてパーソナリティーを担当。2020年から山岳雑誌「岳人」に墨絵&エッセー「野筆を片手に」を毎月掲載するほか、落ち着いたトーンの声質と渋みのある演技で、テレビ・舞台・映画と幅広く活動。プライベートでは多趣味なアウトドア派。ウインドサーフィン、登山、岩登り、ピアノ、釣りを趣味としている。著書に「犬は棒に当たってみなけりゃ分からない」「台詞は喋ってみなけりゃ分からない」「蕎麦は食ってみなけりゃ分からない」「山は登ってみなけりゃ分からない」(敬文舎)、「山へようこそ―山小屋に爪楊枝(つまようじ)はない」(中央公論新社)など。