九州大学主幹教授、都市研究センター長馬奈木 俊介
一般社団法人飲酒科学振興協会(以下、やさしい酔い研究会)⋆の副理事長を務める九州大学主幹教授の馬奈木俊介(まなぎ・しゅんすけ)先生。同協会では適正飲酒とウェルビーイング(豊かさ、幸福度)との関係の科学的測定などに取り組まれています。大学での研究や教育、各国政府から注目される国連の「新国富指標」策定に尽力されるなど、国内外で多忙な毎日の馬奈木教授。ウェルビーイング測定の意味、飲酒と幸福の関係、飲酒寿命の重要性などについて伺いました。⋆ 一般社団法人飲酒科学振興協会:2022年に大学の研究者と三和酒類株式会社が共同で設立した研究機関。活動目的は、ダイバーシティ(多様性)を尊重する新時代に、お酒の適切な飲み方(適正飲酒)、「やさしい酔い」というお酒の楽しみ方、「飲酒寿命」の測定などについて多面的科学的にアプローチし、社会実装していくこと。 文:鈴木昭 / 写真:三井公一
――2025年3月に大分市内で開催された、やさしい酔い研究会の第3回シンポジウムで馬奈木先生は、「飲酒寿命を探る:アルコール体質と健康・ウェルビーイング」というテーマで講演されました。ここであらためて、ウェルビーイングというのはどういう概念なのか教えてください。
国内総生産(GDP)という経済指標は聞いたことがありますよね。国の生産規模を表す一つの指標で、国の政策決定や国力の比較などに使われてきました。しかし、GDPという経済指標だけでは測れない価値があります。人それぞれの実感としての豊かさ、幸福度といったもので、それを我々はウェルビーイングと呼びます。ウェルビーイングを計測して数値化し、GDPを補完する指標として国や自治体が一過性ではなく持続性のある政策決定や政策目標の策定に使う流れが、近年高まっています。
ウェルビーイングの計測の手法にはいろいろなアプローチがありますが、その一つとして、何十万人、何百万人という調査対象者にアンケートを実施する方法があります。例えば、国連が毎年発表する「世界幸福度報告(World Happiness Report)」の調査では、「現在のあなたは、幸福のはしご10段のうち、どの段にいると感じますか」などといった質問に答えてもらいます。こうした自己申告の調査で測定する指標は「主観的ウェルビーイング」と呼びます。これをもとに性別、年齢、所得、健康などの要素の影響などを検証していきます。
一方、大量の統計データを計算して全体のウェルビーイングの指標を算出する手法があります。例えば、経済協力開発機構(OECD)が2020年に提唱した「より良い暮らし指標(Better Life Index、BLI)」や、国連環境計画(UNEP)などが中心となって2023年に提唱した「新国富指標(Inclusive Wealth Index、IWI)」などがこのアプローチによる指標です。
――目に見えないテーマを数値化する取り組みの一環なのですね。あえて伺いますが、ウェルビーイングというものは、人によってさまざまだと思います。それを数値化するというのは難しいのではないですか。
確かに、何を幸せと感じるのかは人それぞれです。それでも、共通の傾向があることが大規模な人数の調査により明らかになっています。幸せと感じる共通の傾向、何が幸せの決定要因なのかといったことを科学的に追究していくことが、幸せを高める鍵になると考えます。また、国家や地方自治体、あるいは企業でも、政策決定には経済指標だけでは不十分なんです。
公共の仕事で考えましょう。例えば道路などの新しいインフラ造りにお金を使い、それが社会にどの程度貢献しているのか、人や物の流れとか経済効果などからある程度数値化できますよね。
個人のウェルビーイングに対しても、どんな要因がどの程度貢献するのかということを測定して数値化できますよ。例えば、収入が高くなったり貯金が増えることはうれしいし、健康であることもうれしいし、仲のよい家族と一緒にいられることもうれしい。これらの要因を、アンケートをもとにウェルビーイングの貢献度として数値化していく。全部を突き詰めて集計していけば、人の理想とか幸せとかって、まあまあ平均値が分かるということです。もちろん平均値から乖離する人はいますよ。それでも総じて多くの人については説明可能です。まずは大きな枠で把握することが重要なんです。
何十万人、何百万人ものデータが取れれば、結構な精度となり、それをどう高めればいいのかが分かるようになるということなんです。ちなみに、これまでに私たちが実施してきた計測では、個人のウェルビーイングに一番貢献するのが、「自分が信頼できる知り合いが近くにいること」、というものでした。続いて、お金、健康、という順番になります。
――「信頼できる知り合いが近くにいる」ということは、個人のウェルビーイングにとって重要なのですね。
そうです。極端な例としては、コミュニティーから孤立している人は早死にしやすくなる傾向があるようです。我々は誰でも歳をとり、いずれリタイアする。よく言われますが、多くの女性は地域にも友だちがいるので、仕事をやめても交友関係が続くけれど、会社人間だった男性は、退職後に地域コミュニティーに溶け込みにくく孤立しがち、ということ。これは気をつけないといけないです。ですから、早い時期からリタイア後の幸せのために次のコミュニティーづくりの準備をしましょうというのが、ウェルビーイングを研究していく中で見えてきたことの一つです。
――やさしい酔い研究会のシンポジウムで馬奈木先生は、お酒とうまく付き合える人は幸福度が高いのではないか、とおっしゃっていましたね。
昔から、医学的なアプローチでは、どんな飲酒習慣のある人はどんな病気になりやすいのか、といった研究がされてきました。健康維持のために1日何杯までといった基準を設けましょうという研究が多かったように思います。かつて適量のお酒なら健康には悪くない、といった説があったと思いますが、最近ではちょっとでも飲酒は健康に悪いよね、といった発表も多くなりました。それは1つの側面を計測していった医学的な研究の大事な流れです。
一方で、私が取り組んできた研究の一つの手法が、人のストレスを計測してみたらどうか、それをどう減らせるかを明らかにしていこうというものです。それを飲酒にも応用してみます。例えば会社の飲み会。最近は若い人から、会社の飲み会ってなぜやるんですか、と質問が出るらしいですね。
ならば、飲み会では何に対してストレスを感じるのかを計測してみる。上司に感じるストレスなのか、出費や時間に関するストレスなのか。併せて、飲み会のどんなことに満足度を感じるのかもアンケートして調べる。いずれ何万人、何十万人という規模でデータを集められれば、飲み会の経済価値も分かってきます。お酒とうまく付き合うための要素も明らかになります。
友達と会って飲みながら楽しく過ごすのはストレス軽減につながりますよね。それは会社の飲み会でも同じで、飲みながら楽しく過ごせればストレス軽減につながります。それはノンアルコールでもいいんです。飲み会に参加することでストレスを減らせるのなら、それは会社という組織にとっても重要なことだと思います。会社の中に仕組み化していければいいですよね。
――やさしい酔い研究会では現在、馬奈木先生を中心に、飲酒がウェルビーイングに与える影響、飲酒のストレスに与える影響などについて測定調査が始まっているそうですね。調査結果はいつ頃発表されるのでしょうか。
来年春頃には簡易版ということでお話しできると思います。調査結果を完全に集計して正式に報告できるまでには3年くらいかかると思います。現時点では作業の途中でもあり、お話しできる内容はまだないのですが、飲み会だったり家飲みだったり、楽しい飲酒の環境を持てることはウェルビーイングのプラス要因となります。既に健康状態が悪いとか、お酒の飲み過ぎの兆候があるとか、病気に近い人の飲酒はマイナス要因となります。その両方で、いいところは増やして、よくないところは減らしていくということが、調査結果をふまえての飲酒に関するアドバイス項目になります。
――アルコール体質検査の結果で分類したり、飲み会のストレスの要因を集約したり、年齢や収入などの変数が入ってきたり、飲酒とウェルビーイングとの関係の計測作業はとても複雑になりそうですね。
それはですね、分かりにくいものを分かりやすくするのが科学なんですよ。以前、気候変動のことについて国連の報告書を執筆しましたが、世の中で気候変動の要因とされるものがいっぱいある中で、人間の営みが気候変動や温暖化の原因だったんだね、というのが、国連の環境報告書なわけです。
気象学者から物理学者から経済学者まで膨大な研究論文や報告書があって、その中から世界の気象変動の要因を見つけ出して環境報告書をまとめる。それと比べれば、誤解を恐れずに言えば、簡単だなとすら感じています。飲酒とウェルビーイングとの関係性の調査というのは食事の世界だけの話ですからね。お酒の種類、その人の体調、払えるお金、外部から受けるストレスとか、その場で過ごす楽しさとかに限られていますから。しかも、やさしい酔い研究会には膨大な医学面からの研究の蓄積もありますし、それらを取りまとめていけばやれると思いますよ。
――昨年のやさしい酔い研究会の第2回シンポジウムで馬奈木先生は「飲酒寿命」という概念を提唱されましたね。
「健康寿命」というのは病気などで制限されずに生活できる期間のことです。「飲酒寿命」というのはお酒を飲める期間のことです。これからは「飲酒寿命」も、健康診断の結果のように、個人個人で分かるようにしたいんですよ。その前段として、飲酒寿命の平均値を算出する必要があります。平均値が決まることで、それと比べてものすごく高い人もいるということが分かる。
個人のアルコール体質検査や飲酒量、それに関連する疾患などのデータを大量に集めて解析を行って、いずれは個人個人の飲酒寿命の想定値を判定できる検査キットを開発したいですね。あと自分がどれくらいの量のお酒を飲めるのか把握できれば、飲酒の際に意味のない罪悪感を減らせるし、楽しさの方向に向かっていけると思いますよ。
自分の飲酒寿命を知って飲酒頻度や飲酒量といった飲み方も改善できるし、ひいては健康寿命も改善できるということになればいいですね。飲酒というのは健康にはマイナス面もあるでしょうが、人の幸福度を増すコミュニケーションの道具にもなりそれはプラス面もあるのですから。
ちなみに私のアルコール体質検査の結果はBタイプでした。こうしたタイプを知っていれば、飲み会の場で血液型の話みたいに話題にできるじゃないですか。お互いにアルコール体質や飲酒寿命の話とかで飲酒も面白くなればいいかなと思います。
飲酒は体に悪いですよね、って言うのは、例えばスナック菓子を食べ過ぎると体に悪いよねというのと同じで。それでも好きならば、ある程度は食べるでしょうし。ここで大事なのは、「ある程度感」、「ほどほど感」を持ってどうお酒と付き合うかというところなのかなと思います。
PROFILE
馬奈木俊介(まなぎ・しゅんすけ)
九州大学主幹教授、九州大学都市研究センター長
福岡県生まれ。九州大学大学院工学研究科修士卒業、2002年、米国ロードアイランド大学大学院博士課程修了(Ph.D.)後にサウスカロライナ州立大学講師。東京農工大学、横浜国立大学、東北大学を経て、2015年、九州大学大学院工学研究院都市システム工学講座教授。専門は都市工学、公衆衛生、経済学。公衆衛生専門雑誌「The Lancet Planetary Health」、「Social Science & Medicine」等に出版。2014年から国連の「新国富報告書」代表のほか、数多くの国連報告書の統括代表執筆者、経済協力開発機構(OECD)貿易・環境部会副議長などを務める。国内では経済産業省及び環境省の審議会臨時委員役、日本学術会議サステナブル投資小委員会委員長などを務める。
著書に「環境と効率の経済分析―包括的生産性アプローチによる最適水準の推計」(日本経済新聞出版社)、「幸福の測定―ウェルビーイングを理解する」(共著、中央経済社)、「新国富論――新たな経済指標で地方創生 」(共著、岩波ブックレット)、「AIは社会を豊かにするのか:人工知能の経済学II」(編著、 ミネルヴァ書房)など多数。