もっと語ろう麹と発酵 Vol.05 酒類総合研究所 岩下和裕×藤田千恵子「丁寧なお米作りが、お酒造りにも重要だということが科学的にも分かってきています」

think KOJI 麹文化と発酵

もっと語ろう麹と発酵 Vol.05丁寧なお米作りが、
お酒造りにも重要だということが
科学的にも分かってきています

酒類総合研究所岩下 和裕

聞き手:作家・ライター 藤田 千恵子

対談「もっと語ろう麹と発酵」第5回は、日本で唯一のお酒に関する国の研究機関、独立行政法人 酒類総合研究所の成分解析研究部門・部門長の岩下和裕(いわした・かずひろ)さんが登場。岩下さんが長年研究されている「お酒の美味しさ」をテーマに、全国の酒蔵を巡り歩くライター、藤田千恵子さんが伺います。
写真:三井公一

ムツゴロウさんが大好きだった子ども時代

酒類総合研究所 岩下和裕さん
藤田
先生が長年続けられてきた「分子生物学」というご専門は、どんなご研究なのでしょう。お酒造りとはどのように関わっていらっしゃるのですか。
岩下
かつてお酒は、昔は神様に捧げるもの、自然にできてくる神秘的なものでした。現代では、それが目に見えない微生物の力で発酵が起きてお酒が造られることが分かってきました。それがどう発酵しているのかというと、さらに目に見えない酵素というものが働いて、清酒ならば、お米を清酒に変えていく。

さらに研究が進んでいくと、酵素の設計図となっている遺伝子を実際に取り出して調べることができるようになります。遺伝子がどう働いてお酒を造っているのかということをずっと見てきました。そのようなことを長年やってきたのが私の研究です。
藤田
どういう経緯で今のテーマにたどり着かれたのですか。
岩下
子どもの頃から私は生き物が好きでした。動物にもすごく興味があって、ムツゴロウさん(動物研究者・作家の畑正憲さん)が大好きで。そのムツゴロウさんがもともと生物の研究者であったことで生物学に興味を持ち、小学校の各学年向けに発行される「〇年の科学」(学習研究社)という学習雑誌を読んで、科学全般にも興味を持ちました。生物学者の利根川進さんが分子生物学の分野でノーベル賞を受賞されて、そこから具体的に分子生物学というものに興味を持ったのが高校生の時です。

その後、そういった仕事ができるところがないかと探すようになりました。大学4年生の時に就職活動で国税庁や農水省の試験を受ける中で、最初に声をかけていただいたのが、いま勤務している独立行政法人 酒類総合研究所を所管している国税庁だったんです。
作家・ライター 藤田千恵子

“美味しい”という主観を定義する難しさ

藤田
酒類総合研究所で岩下先生は、お酒の美味しさを探っておられるということですが、個人の嗜好によっても異なる「美味しさ」というものを、どのように定義づけていらっしゃるのですか。
酒類総合研究所 岩下和裕さん
岩下
科学とは客観的な学問で、美味しさというものは主観的なものですね。その主観を定義しなければならないというのは、すごく難しい問題です。それで先に答えを言ってしまうと、今、まさにその美味しさの定義づけについて研究しているということになります。

世の中に美味しいお酒というのはたくさんあります。人の感覚を使って官能評価をするときは、いろいろなお酒に点数をつけてもらうことになります。「1」が一番美味しいお酒、ということで1から5までの点数をつけた場合、「1」がそろったものが一番ということになる。

そうやって、とりあえず美味しさの定義づけはできる。ところが、ある人にとっては一番だというお酒に、ほかの人が3とか5とかの点数をつける場合もあるわけです。特にそれを感じたのが、日本と香港、イギリスとアメリカで10種類のお酒の利き酒をしていただいた時です。それぞれの国で100名程度の方に利き酒をしていただいたのですが、イギリスで一番評価されたお酒が香港では最下位になっちゃって。
藤田
面白いものですね。

お酒の成分を鎹(かすがい)にして、人の評価とお酒造りをつなげる

岩下
そこで、あらためて美味しさというのは、人それぞれによって違うのだということを確信しました。そこをなんとか表現できないか。“美味しい”の定義自体がひとつの研究テーマなんですね。美味しさが人それぞれでどう違うか。どういう背景で違ってくるのか。タイミングによっても美味しさは違いますね。お腹が空いてる時と満腹の時でも違います。料理との相性もありますね。

いろいろな背景で変わってくるので、まずは個人個人の美味しさを科学的に表現する方法を作ってあげれば、美味しいということの研究に取り組めるのではないかなと。そこが一番、今興味あることのひとつです。“美味しい”の定義をマクロに見るためにも個人を研究しなければいけないと。
藤田
ミクロとマクロの双方を見るご研究なのですね。
品種によって異なる籾
岩下
お酒そのものをより精細に見ていくと、分子レベルの大きさのものからお酒の味は構成されています。たとえば清酒の例でいうと、約97%は、水とアルコールという2種類の成分。残りの3~5%くらいのところに、報告されているだけで400を超える成分が含まれていて、その中でも0.0000001%くらいの量で、お酒の香りとか味わいにものすごく影響を与える成分があるんです。そういうものがたくさん混ざり合って、そのバランスがお酒の味を決めている。

私の研究は、お酒の成分というものを鎹(かすがい)にして、人の評価とお酒造りをつなげること。人の美味しさの研究をお酒の研究にどう生かしていくのか、そこをどうつないで橋渡しをしていくかということになります。

その時々の気候がお酒の成分にも影響している

藤田
お酒造りの現場の方々へは、どんなことをお伝えになるのでしょう。
岩下
お酒造りの工程は複雑で、百年以上の研究の歴史はあっても科学的に分かっていることは、ほんの一部なのです。お酒造りの現場では経験のほうが、まだまだ今でも重要なんです。

ただ、一方でお酒の成分を細かく科学的に見ていくと、たとえば、お米は自然の影響を受けて生育します。その年の気候とか日当たりとかでお米の出来映えは変わってきます。それを農家の方々は経験的に知っているわけですね。一方で、それを突き詰めて科学的に解析をしていくと、お米から出てくるお酒の味わいに自然環境とか気候が反映されているということが、まだまだ一部ではありますが科学的に明らかになってきました。
精米歩合によって大きさが異なる山田錦
岩下
日本人はとても丁寧な仕事をする民族ですけれど、その丁寧さというものが、結局はお米作りやお酒造りにも重要で、お酒の出来具合に影響を及ぼすことが科学的に証明可能な時代になってきたわけです。そのうえで、それぞれの地域の風土の違いをどうお米作り、そしてお酒造りに生かしていくのかというようなところもやっぱり大切になりますね。

お酒を飲むことで、それぞれの土地や田んぼを守る

藤田
農家の方々ともよく会われるのですか。
岩下
はい、お米の開発研究をされている方が中心になりますが、全国各地でお目にかかりますね。以前は、微生物の研究をしていましたけど、今はもうお米から清酒という製品になるところまで全部が研究対象です。
藤田
フィールドワークも多いのですね。
岩下
はい、田んぼに行ったりしていたのですが、ただ、このコロナ禍で外に出る機会はなくなりましたね。地酒というのは、その土地に行って飲んで、土地の食べ物を食べて空気感を感じるときに、その良さを実感しますよね。いろいろな造り酒屋さんとお話しさせていただいて僕が一番しっくりきた言葉は、「うちの酒を飲んで、この土地の湿度とか温度、風の感じや匂いを感じていただけたら、地酒として成功している」とおっしゃったんですよ。コロナ禍の間はこの地酒を楽しむ機会がなくなっているのが寂しいですね。
藤田
岩下先生は、研究室でのお仕事と、その土地ならではの文化と両方を見てこられたんですね。
岩下
そうですね。分子レベルまで細かく見ていったら、たまたま全体が見えてきたというか。
(左)作家・ライター 藤田千恵子(右)酒類総合研究所 岩下和裕さん
藤田
すばらしいです。以前、鳥取の酒蔵さんからお聞きしたお話ですが、その蔵元さんは小学生が酒蔵に社会科見学に来た時には、「この一升瓶の中に、この町が入っている」とお話しされるそうなんです。この土地のお米もお水も働く人たちの労働力も技も。なので、私たちがお酒を飲むことで、それぞれの土地や田んぼを守ることにつながると。そう聞くと、すごくお酒を飲む気が湧きますね(笑)。
岩下
それは本当にそうだと思います。田んぼだけじゃなくて、水環境も自然も守ることになります。

杜氏さんの経験を記録に残す

藤田
お酒造りの技術は、長いこと口伝の世界で守られてきましたが、科学的な証明やデータが蓄積されていくことで、お酒の再現性というものは高まるのでしょうか。
岩下
お酒造りには、それぞれの杜氏さんの経験とか技というものがありますが、ただ、その経験というのは杜氏さんの中にしかないんですよね。逆にいうと、何か新しいものを造ろうと思ったときには、やってみるしかないということになりますね。

違いが分かる杜氏さんが毎回いろいろと試行錯誤する中で、「こっちの方が美味しい」と気づいて、酒造りのプロセスは改善されていくのですが、次に別の造り手の方が試してみて、その味の違いが分からないとしたら、杜氏さんの経験というものは伝わらずになくなってしまう。そういうことがお酒造りの歴史では繰り返されてきました。
藤田
そうですね。杜氏さんが引退されたら、その蔵の味が変わる場合もありますね。
岩下
はい、それがもったいないことだなということで、清酒の中には400以上の成分、現在は1000くらいの成分があると考えられますが、どういうお酒の造り方をしたらどういう成分になったかを記録していく。それを蓄積していけば、今まで失われていた経験というものが記録に残ることになりますね。

そこから、今度は、こういうお酒はどうだろうとか、こういう原料がきたらどうだろうと探る時に蓄積したデータが使えます。今までは特定の味わいがどういう成分なのか、見つけ出すまでに5年とか、場合によっては10年かかっていました。

杜氏さんが変わって、お酒の味わい(成分)が変わったという時に、どういう工程が関係しているのかを見つけるのに数年……少なくとも2、3年から、5年くらいはかかる。つまり味わいの原因が分かって、どういう味なのか香りなのかに紐づけて、それがどういうプロセスでできてくるのかを知るのに、ざっと10年から20年かかっていたのです。もし原因と結果を全部記録しておくことができれば、味わいの原因物質が分かった時には、どういう条件で、その成分が出てくるのか、即座に分かるようになっていくのではないかと期待しています。
酒類総合研究所 岩下和裕さん

お米や麹菌や酵母の適性が、その土地固有のものへ導かれていく

藤田
私たち飲む側としては、再現できないのは仕方がないのかなと思っていました。お酒の出来というものは毎年違うのが当然なのだと。
岩下
お酒の中には分かっているだけで400以上の成分がありますから、そのバランスが完璧に同じものを造るということは、なかなかに難しいですね。ただ、失敗して、思ってなかったような変なものになるということは少なくなるのではと思います。
藤田
最初のリスク回避は成功していくということですね。
岩下
そうですね。でも、成分ありきで、積み上げていくということではなく、例えば彫刻家が木の仏像を作るとき「材料となる木の中に仏像が眠っていてそれを掘り起こすだけだ」と話されたりします。それに近い感覚で、この土地のこういう環境であれば、こういう技術を使ったら「原料からこんなお酒が掘り起こせた」という、そういう方向で考えるほうがもっと豊かで面白いと思うんです。そこをうまく科学と技術で導けるようなことができないかなと思っています。
藤田
原料であるお米や麹菌や酵母の適性が、その土地固有のものへ導かれていくんですね。先生はどのような形でそれを記録して伝えていこうとされているのですか。
品種による稲穂の違い

研究から酒造りまで、両方できる唯一の公的研究機関

岩下
成分一個一個について、それがどんな分子から成り立っていて、どれくらい入っているかということを全部記録しています。今、我々が研究に使っている分析機では、お酒の中に入っている170成分、あるいは338成分をいっぺんに測ることができるんですよ。

この研究では、質量分析機という分子一個一個の重さを測定する機械を使っています。化学者の田中耕一さんは、「生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発」でノーベル化学賞を受賞されましたが、使われた機械は飛行時間型質量分析計「TOF-MS」と呼ばれるものです。被験物質をセットして、用意ドンで真空の中で分子を飛ばして、ゴールに到着するスピードを測ると、分子一個一個の分子量を測定できるんです。このTOF-MSが研究で使われています。

専門用語になりますが、精密質量という、元素の組み合わせを示す組成式が分かる形式でも記録をしています。今は成分が何か分からなくても、将来、これはこの成分だったとすぐに確認できるようにしておきたいと考えているからです。この手法は、メタボローム解析*1というものの一環ですが、その時に検出できる成分全部を記録する方法をとっています。*1 メタボローム解析:被験物質に含まれる物質のすべてについて、種類や濃度を網羅的に分析する手法。
分子一個一個の分子量を測定する質量分析機TOF-MS分子一個一個の分子量を測定する質量分析機TOF-MS
藤田
今のお話も含めて、この酒類総合研究所にいらっしゃるからこそ、できているご研究なのでしょうか。
岩下
ここでしかできないことだらけですね。科学的な分析もできますし、500ml程度の小さな容器でお酒を造ることも、大きなタンクでお酒を造ることもできます。清酒だけでなくて、焼酎もワインも、ビールも造れて、それで研究ができるという国立の唯一のお酒専門の研究機関なのです。

清酒を現地で生産してフレッシュなうちに飲んでもらう

藤田
ところで、先生は「日本酒を世界のお酒にする」、ということも提案されていますね。日本酒の原料はお米だから、海外の醸造する場所まで運んでお酒を造ることができると。
岩下
はい、以前はそう言っていました。ただ、「日本酒」という言葉が、地理的表示(GI)*2で保護されるものとなりましたので、「清酒」*3と言わなければならなくなりました(笑)。その定義づけで正しく表現するなら「清酒を世界酒にする」ということになります。*2 地理的表示:地理的表示(GI=Geographical Indication)とは農林水産物・食品などの名称で、その名称から当該産品の産地を特定でき、産品の品質などの確立した特性が当該産地と結び付いていることを特定できる名称の表示のこと。2015(平成27)年6月施行「特定農林⽔産物等の名称の保護に関する法律(GI 法)」により保護されている。*3 地理的表示と清酒、日本酒:「清酒」は、米、米こうじ及び水を主な原料として製造したもの。原料及び製法は酒税法により規定されている。「清酒」のうち、米及び米こうじに国内産米を使い、日本国内で製造したものを「日本酒」と呼称し、地理的表示(GI)「日本酒」として登録している。
今は日本で造ったお酒を海外に運んでいます。日本酒を普及させるためには、とても必要なことですが、海外に日本酒を運ぶと、温度や輸送期間などの問題で劣化することが多いんです。ですので、清酒が世界酒というほどに普及するためには、ビールのように日本から原料を運んで現地生産して、フレッシュなうちに飲んでもらうというビジネスモデルが向いているのではないかと考えます。
酒類総合研究所施設内
岩下
もちろん、劣化しないような管理方法で運んで、日本のお酒のいい状態を味わってもらうということも、それはそれで大切なことだとも思います。
藤田
その考え方の基本はフレッシュな清酒が良いという価値観になりますか。
岩下
そこはまた別の話になってくると思います。清酒は熟成ということもできるので、ある程度熟成に耐えるようなお酒を届けるという考え方もありますね。そのためには、その土地でどういうお酒が本当にうけるのかということをちゃんと考えないといけない。
藤田
そうですね、エリアによって嗜好も違うでしょうね。焼酎は、清酒に比べて劣化のリスクは減りますが、海外で焼酎を普及させることについてはどんなお考えをお持ちですか。
岩下
焼酎はウイスキーモデル(蒸留酒製造)ですよね。
藤田
ビールモデル(醸造酒製造)とウイスキーモデルとでは方法が異なるということでしょうか。

焼酎は食事とのバランスをどう形成するか

岩下
海外の方々にどう理解していただくかということですね。清酒は醸造酒でワインに近い。ブドウと米の違いはありますが、日本の米作りから手掛ける、小さな酒蔵さんは、文化的には海外のワイン愛好家との親和性が高いと思います。

一方、焼酎は、スコッチやバーボンをきちんと理解して飲んでいる方々というのが、ひとつのターゲットになると思います。そういう方々にどう理解していただくか。たとえばスコッチの場合、スコットランドの地酒ですから、それを飲む方々はスコッチが一番だと思っていらっしゃる。その中に分け入るのはなかなか難しいかなあとも思いますが、そこを別の方向性で楽しんでいただけるように持っていけるといいですね。

我々がスコッチを楽しみながら、海の向こうのスコットランドに思いを馳せるように、海外の方が焼酎を楽しみながら、日本の風景や文化に思いを馳せるような楽しみを持っていただくとうれしいですね。
酒類総合研究所 岩下和裕さん
藤田
清酒と焼酎では、美味しさの定義も、美味しさの訴求も変わってきますね。
岩下
清酒の中には糖も酸もうまみもある。食塩が入ってないくらいで、すべての五味の味わいがある。清酒を塩で飲むのは、塩味が足りないからですが、それだけ補えば味わいのバランスが成立するのが清酒の特徴です。ワインの場合は、うまみの部分が足りないから、チーズとかお肉とか合わせて食べるとそれで五味(甘い・辛い・酸っぱい・苦い・塩辛い)がうまく形成できるというところがある。

そう考えると、焼酎は食事とのバランスをどう形成するか、食事にどう合わせてはめ込んでいくかというところが、海外普及のためのひとつのポイントになると思いますね。
岩下和裕(いわした・かずひろ)

PROFILE

岩下和裕(いわした・かずひろ)

独立行政法人酒類総合研究所 成分解析研究部門・部門長。広島大学大学院統合生命科学研究科 生物工学プログラム・細胞代謝遺伝学研究グループ 客員教授。1968年、熊本市生まれ。1990年、佐賀大学卒業、同年国税庁に入庁1995年に醸造研究所(現独立行政法人酒類総合研究所)へ赴任。在職中の1995年に東京大学で博士号取得。

藤田千恵子(ふじた・ちえこ)

PROFILE

藤田千恵子(ふじた・ちえこ)

ライター、作家。酒と醗酵食を中心に日本の食と生産者を捉えた数々のフードライティングを発表。著書に「日本の大吟醸100」「杜氏という仕事」(ともに新潮社)、「これさえあれば―極上の調味料を求めて」(文藝春秋)、「美酒の設計」(マガジンハウス)など。現在、「dancyu」「あまから手帖」等、雑誌の日本酒特集に寄稿。2004年より長野県原産地呼称管理制度日本酒官能審査員。日本の醗酵食品と日本酒を共に味わう「醗酵リンク」主宰。