下田雅彦「もろみの過程で見つけた蔵付き酵母。それが『いいちこ酵母』の発見でした。」

もっと語ろう麹と発酵 Vol.03【前編】もろみの過程で見つけた蔵付き酵母。
それが「いいちこ酵母」の発見でした。

三和酒類 代表取締役社長下田 雅彦

聞き手:作家・ライター 藤田 千恵子

対談「もっと語ろう麹と発酵」第3回は、大阪大学工学部発酵工学科で醸造学を学び、工学博士号を取得された技術者でもある、三和酒類の下田雅彦社長。いかにして美味しい酒を造るのか。経験と実績に裏付けられた麹や発酵への愛情たっぷりなお話を、全国の酒蔵を巡り歩くライター、藤田千恵子さんが伺います。対談は前編・後編に分けて公開予定で、本記事は前編となります。 後編はこちら 写真:三井公一

日本酒の酵母識別技術がもたらした
「いいちこ酵母」の発見

藤田
下田社長は、大分のお生まれですが、発酵工学を学ぶために大阪大学に進学されたのですね。どんなきっかけで進路を決めたのですか。
下田
当時、発酵というのは珍しくて面白そうだなという興味と専門性に惹かれまして。発酵工学を大学で学ぼうとすると、学科の多くは農学部にあるんですが、国立大学の工学部で発酵工学について学べるのは、山梨大学、大阪大学、広島大学の3カ所だけだったんですよ。その中から大阪大学を選びました。
藤田
今のように、発酵にスポットが当たる前の時代に、若くして慧眼(けいがん)でしたね。
下田
発酵という分野には食品もあるし、薬品関係や化粧品関係、水処理などの環境対策、いろいろなものがありますから、就職するにしても、つぶしが利くなと(笑)。
藤田
大学卒業後は日本酒の業界に入られたと、「焼酎の履歴書」(鮫島吉廣著、イカロス出版、2020年発行)で読みました。
下田
迷わず灘の清酒メーカーへ行きました。専門的な好きなことをやっていきたいと思いましたし、父もお酒が好きだったので、わりと親しみがあって。そこで5年間勤務しました。
藤田
どんなお仕事をされたのですか。
下田
私の仕事は技術職でしたので、日本酒の造りも基礎から覚えて酵母の研究に携わり、昔の醸造試験所(現・独立行政法人酒類総合研究所*1)にも行かせてもらって、頑張るぞという感じだったのですが、結婚を機に退職して大分に戻ることになりました。*1 独立行政法人酒類総合研究所:財務省所管の酒類に関する研究機関。酒類の分析・鑑定・研究・調査、酒造メーカー向け講習、消費者向け教養講座などを実施する。前身の「醸造試験所」は1904(明治37)年に大蔵省所管の国立研究機関として東京都北区滝野川に設置された。1959(昭和34)年に国税庁の直属研究機関となる。1995(平成7)年に広島県東広島市へ移転し、「国税庁醸造研究所」と改称。2001(平成13)年に「独立行政法人 酒類総合研究所」に移行した。
藤田
あちらとしては大変な人材流出ですね。
下田
でも、円満退職ですよ(笑)。良い関係でしたから。
(左)作家・ライター 藤田千恵子(右)三和酒類 代表取締役社長 下田雅彦

酵母を識別していく技術

藤田
日本酒から焼酎造りの会社に移られてからの下田社長が、「いいちこ酵母」を発見するまでにはどのような経緯があったのですか。
下田
前の会社では酵母を研究していましたから、幸運な面もあったんですよ。まずは醸造の段階で野生酵母が入ってくるといい酒にはならないという問題があるでしょう。
藤田
分離した純粋酵母ではなく、蔵付きの野生酵母の混入ですか。
下田
そうそう。それをチェックする識別方法として、私の先輩が酵母を野生酵母か優良酵母かを識別する画期的な方法を開発していました。発酵中のもろみ*2から酵母を取り出してプレートにまき、そこに染色液をかけて培養していくと優良酵母は白、野生酵母は茶色と分かれるんです。私は前職の研究所でその最新の識別技術を見ていました。*2 もろみ(醪):醸造用のタンク(あるいは木桶)に、酒母(優良な酵母を培養したもの。酛〔もと〕とも呼ぶ)、麹、水と、日本酒なら蒸米(むしまい)、麦焼酎なら蒸麦(むしむぎ)を入れて仕込み、その後発酵している状態。
藤田
その識別法を焼酎のもろみでも試されたのですか。
下田
やってみました。焼酎は一次仕込みをする時に、焼酎製造専用に純粋培養された焼酎用酵母を添加します。このときは、主要酵母の1つである鹿児島酵母*3を使っていました。それをスターターとして一次のもろみを発酵させて酵母を増やしていき、二次仕込みの段階でさらに原料を加えて主発酵で10日間発酵させて焼酎にする。それで、これは専門用語ですが、一次仕込みのときに差し酛(さしもと)といって、毎回、酵母を添加するのではなくて2番目の酒母(酛)には、順調に発酵しているもろみの一部を入れて種酵母として使う、という方法もあるんです。*3 鹿児島酵母:焼酎造りに使うため純粋培養された焼酎用酵母の1つ。鹿児島2号、4号、5号、6号と改良が加えられている。このほか主要な焼酎用酵母には泡盛1号、宮崎酵母、熊本酵母、焼酎用協会2号、3号などがある。県の工業技術センターや 公益財団法人日本醸造協会などで開発・販売されている。
藤田
日本酒やお酢の醸造でも、差し酛が行われる場合もありますね。

もろみの中から蔵付き酵母を発見

下田
差し酛を続けていくうちに、アルコールの収量、発酵が旺盛になって、差し酛をすればするほど、どんどん調子のいいもろみになっていく。それで良い状態の時のもろみを分析してみようということになって。そうしたら鹿児島酵母ではない酵母がそこにいたんです。
藤田
わ、発見!
下田
そうです。最初は鹿児島酵母が1000あったとして、それに対してわずか1くらいしかいなかった酵母が半月くらい経ったら逆転してしまった。添加した鹿児島酵母のほうが増殖は速いはずなのに、蔵付きの酵母のほうが、添加した酵母の増殖を追い抜いてしまって、それが最後までしっかり発酵してくれる酵母で。それが「いいちこ酵母」の発見でした。
藤田
蔵付き酵母がホームで、添加酵母はアウェイといった感じに。
下田
ははは、そんな感じですね。
三和酒類 代表取締役社長 下田雅彦

藤田
研究所のみなさんは、発見に沸きましたか。
下田
私が三和酒類に入社した時は、研究員は私一人で当時の社長が直属の上司でしたから、研究所のみなさん、ではないですね(笑)。まあ、徐々に仲間が増えていったのですが。その研究室で、いいちこ酵母の第1号の元株を改良したり、あるいは変異させたりという育種を行って、酵母の新しい株を何十種類と作っていくうちには、香りの高い酒を造る酵母が見つかったりもしました。
藤田
酵母の性質というのは、実際に仕込み始めてから分かってくるということですか。
下田
もちろん、現場の仕込みでも分かりますし、その前に発酵の試験や小規模の仕込みを行うこともあります。
藤田
そうして良い酵母が選抜されていくのですね。発酵が進んでいく際、一次発酵も二次発酵も原料は、麦だけですか?
下田
麹原料も麦で一次を仕込み、二次原料にも麦を使います。焼酎は、通常一次では米麹を使い、二次(主)原料が米なら米焼酎、蕎麦(そば)を加えると蕎麦焼酎、黒糖を加えると黒糖焼酎となりますね。うちの場合は、麦100%の麦焼酎の造り方です。

砂糖の添加をやめるという30余年前の決断

藤田
1989年には砂糖の添加をやめられたそうですね。
下田
昔ながらの製法で造られた麦焼酎や芋焼酎、米焼酎だけでなく、1970年代に入るとさまざまな技術革新が起こって濾過(ろか)精製技術が進歩したり、原料の精白が高くなったりしたことで、軽快で香りの高い焼酎が増えてきたんです。濾過もしっかりかけることで、酒質をきれいにしていく。ただ、そうすると飲んだ時の味わいに若干粗さが残り、アルコールの辛さを感じるんですよね。それで砂糖を足すようになったんです。
藤田
それは熟成で変わっていくようなものではないのですか。
下田
いえ、熟成ではなく、砂糖をちょっと入れることでバランスをとることが、当時の焼酎メーカーでは一般的に行われていました。でも、1986年に品質表示基準の法改正があって、原材料と添加物の表示をしなければならなくなった。なので焼酎の砂糖添加も表示することに。
三和酒類 代表取締役社長 下田雅彦

藤田
砂糖というのは、醸造用の糖類ではなく、一般的な砂糖だったのですか。
下田
そうです。会社では、砂糖の添加をどうしようと大問題になって。徐々に砂糖の量も減らしていったのですが、しかし、いいちこから砂糖をとったら、辛くていいちこの味ではなくなるという意見も社内にはありました。

それで、減らしてはいっても、これ以上は減らせないというところまできた時に、うちは砂糖添加と表示して、いいちこの味を残そうということになったんです。それで、その時に広告を出したんですよ。「シングル90杯に、あえて1個の角砂糖」というコピーで。いいちこはグラス90杯分に角砂糖が1個入っているだけですよと。
藤田
はー、それは正直で分かりやすいですね。
下田
そう、分かりやすいということで、その広告は優良広告賞をいただいて。3年間砂糖添加を続けたんですけど、でも、ほかのメーカーさん達は、砂糖無添加に切り替えていたんです。それで、やっぱり、私たちの会社だけ砂糖が入っているのもどうかということで。
藤田
角砂糖1個でも……。
下田
そう、そこからは砂糖添加をやめるという話になって、それが一大ミッションになったわけです。いったんは、これは無理だということになったんですが。社長命令で、なんとかしなさい、砂糖無添加のいいちこを開発しなさいと。そこで、試行錯誤して、全社をあげて取り組んだんです。それで全麹という発想が出てきました。
三和酒類 代表取締役社長 下田雅彦

全麹で甘いもろみを造ってみた

藤田
米麹の全麹というと、甘みの強い日本酒も出ていますが、麦焼酎の場合はどのように。
下田
わりとシンプルなんですよ、考え方が。甘いもろみを蒸留したら、焼酎も甘いんじゃないかと(笑)。我々は、ある意味技術力が高いわけですから、発酵の力も強くて、要は辛口のもろみになっていたわけですね。それに対して、たとえば泡盛(あわもり)だと全麹仕込みの1回蒸留ですね、そうすると、非常に濃厚な甘味もある酒になる。あれがいけるんじゃないかということで、それで全麹で甘いもろみを造ろうと。
藤田
それもまた、日本酒の業界にいらした経験が生かされて。
下田
私の最初の頃の仕事は、ほぼほぼ、日本酒業界で学んだことを応用してますね。
藤田
脈々と生かされているのですね。その全麹を用いた製造の結果、飲み手の方々の反応はどうでしたか。
下田
まずは社内で砂糖入りのいいちこと砂糖無添加の新製品と試飲会をしました。砂糖が入っているか入っていないか、飲んで分かるかどうか。でも、どっちか確率は2分の1ですからね、当てずっぽうでも、何割かは当たってしまう(笑)。7割くらいの人はどちらか分からないという意見でした。残りの3割の人は、やっぱり味が違うよと言う。

それでまた微調整をして、さらに手直しして、もうこれ以上はできません、というところまでやってみて、最後は社長に「この味でいく」という結論を出してもらいました。砂糖無添加にしても、結果的にはお客様に新しいいいちこの味を好意的に受け入れてもらえたんです。

後編へ続く
下田雅彦(しもだ・まさひこ)

PROFILE

下田雅彦(しもだ・まさひこ)

三和酒類株式会社 代表取締役社長 工学博士(大阪大学)
1955年、大分県豊後大野市出身。79年大阪大学工学部醗酵工学科卒業後、清酒メーカー勤務を経て、84年10月三和酒類に入社。主に研究開発部門を担当し、89年に設立された三和研究所研究室長、99年取締役研究所長、2003年常務取締役、09年専務取締役、14年取締役副社長、17年10月に代表取締役社長に就任。
<受賞歴>
1995年(財)日本醸造協会技術賞「麦焼酎の原料処理に関する研究」、99年(財)日本醸友会技術賞「麦焼酎蒸留粕処理と有効利用」、2021年文部科学省令和3年度科学技術賞(開発部門)「焼酎原料用精麦大麦の原料処理に関する開発」

藤田千恵子(ふじた・ちえこ)

PROFILE

藤田千恵子(ふじた・ちえこ)

ライター、作家。酒と醗酵食を中心に日本の食と生産者を捉えた数々のフードライティングを発表。著書に「日本の大吟醸100」「杜氏という仕事」(ともに新潮社)、「これさえあれば―極上の調味料を求めて」(文藝春秋)、「美酒の設計」(マガジンハウス)など。現在、「dancyu」「あまから手帖」等、雑誌の日本酒特集に寄稿。2004年より長野県原産地呼称管理制度日本酒官能審査員。日本の醗酵食品と日本酒を共に味わう「醗酵リンク」主宰。