下田雅彦「麹原料にも麦を使うことで初めて『麦100%の焼酎である』と言えるものなんです。」

もっと語ろう麹と発酵 Vol.03【後編】麹原料にも麦を使うことで初めて
「麦100%の焼酎である」と言えるものなんです。

三和酒類 代表取締役社長下田 雅彦

聞き手:作家・ライター 藤田 千恵子

大阪大学工学部発酵工学科で醸造学を学び、工学博士号もお持ちの技術者でもある、三和酒類の下田雅彦社長。この対談の後編に入ります。いいちこスペシャルが醸し出すバニラのような甘い香りの秘密、麹や麹文化へのこだわりなど、美味しい酒を造るためのトライアルの数々を、全国の酒蔵を巡り歩くライター、藤田千恵子さんが伺います。 前編はこちら 写真:三井公一

バニラの甘い香りの焼酎を醸(かも)す

藤田
三和酒類の研究室のお仕事として、バニラ香を醸し出す「いいちこスペシャル」の開発もされたそうですね。
下田
沖縄の泡盛のクース(古酒)*1にもバニラ香が出るでしょう。そのメカニズムを応用した、うちの優秀な研究員による研究成果なのですよ。*1 クース(古酒):3年以上貯蔵・熟成させた泡盛。甕(かめ)や瓶(びん)に入れて寝かせると、香りは芳醇(ほうじゅん)に、味わいはまろやかになっていく。
(左)作家・ライター 藤田千恵子(右)三和酒類 代表取締役社長 下田雅彦
藤田
確かにクースにはバニラやカカオのような香りがありますね。
下田
泡盛のバニラ香が出るまでの原理なんですけど、米の細胞壁にはバニラの甘い香り(=バニリン)になる前の、「フェルラ酸」というものがついている。それを麹菌が分解して遊離させることで、発酵中のもろみにフェルラ酸が増えてくる。さらにそれを蒸留すると、加熱によって4-ビニルグアヤコール(以下、4VG)というものに脱炭酸*2されて原酒に移行して、それを貯蔵していくと酸化してバニリンになるという理屈なんです。ここまでは、独立行政法人酒類総合研究所の先生の研究成果です。それをうちの研究員が、これを麦焼酎でも応用できないだろうかと試してみたのです。*2 脱炭酸:化学の有機反応の形式のひとつで、カルボキシ基 (−COOH) を持つ化合物から二酸化炭素 (CO2) が抜け落ちる反応のこと。
藤田
お米の場合と麦の場合とはずいぶん違うものですか?
下田
いや、麦にもフェルラ酸はあるんです。ですから、理屈上では麦でもできる。でも、それは常圧蒸留じゃないとできない。それを減圧蒸留で実現するにはどうしたらいいかと考えた末に、もろみの段階でフェルラ酸を4VGに変えることができないかということになったんです。それは酵母に働いてもらおうと。

いいちこ酵母とワイン酵母を掛け合わせる

藤田
そういう働きをする酵母が、蔵の中にいたのですか?
下田
いや、それはいいちこ酵母にはできません。ワイン酵母やビール酵母に、その能力を持つものがあるということで、いいちこ酵母とワイン酵母を掛け合わせ、細胞融合して、スペシャル酵母TSH-1を開発したんです(図1参照)。
藤田
すごいことですね。
〈図1〉スペシャル酵母TSH-1の取得方法バニラの甘い香りを有するバニリンの前駆物質である4VGを生産する酵母を取得するために、焼酎酵母とワイン酵母を掛け合わせ、細胞融合させた
下田
その酵母を開発したあとは、減圧蒸留で熱を加えなくても4VGができて、これを貯蔵したらバニリンになります。そのバニリンを含む麦焼酎の原酒を貯蔵しておいたことで、「いいちこスペシャル」ができたんです(このメカニズムは図2参照)。
藤田
泡盛は甘い香りを持つクースになるまでには長い熟成期間がありますが、焼酎の場合もでしょうか。
下田
時間はかかりますね。厳密に何年ということではないんですけど、最初にできた時は、あまり美味しいとは思えなくて。これ、ほんとに大丈夫?! というのを大量に造っちゃってですね(笑)。ところが、8年後に、すごくいいものになりました。
〈図2〉いいちこスペシャルにバニラの甘い香りが生まれるメカニズム①バニラ香(バニリン)になる前の成分「フェルラ酸」は大麦にも細胞壁につながって含まれている。フェルラ酸はもろみの中で麹菌の酵素によって細胞壁から遊離する。
②フェルラ酸は揮発しにくいため、蒸留しても熱で分解した4VGしか原酒に移らない。そこで、フェルラ酸を熱で揮発しやすい形である4VGに変えてあげる必要がある。ところが、一般的な焼酎酵母はフェルラ酸を4VGに変える酵素を持っていない。
③そこで、開発したのが、フェルラ酸を4VGに変える力を持った「スペシャル酵母TSH-1」。これで仕込んで4VGを多く含む原酒を造り、これを長期間寝かせることで、バニラの甘い香りを出すようになる。

熟成を重ねることで良い風味が出てくる

藤田
8年! それは期せずして、ですか。それとも、そうなるはずと。
下田
理屈上はそうなるだろうと。でも、最初はそうではなかった。この4VGという成分の香りは、あまりいい香りではないんです。しかし熟成を重ねることでバニリンへ変化し、良いものになりました。そもそもは麹菌の酵素が原料からフェルラ酸を出していくから、良い風味が出てくるんですよね。そのように細胞融合して作った酵母と麹菌の力で、「いいちこスペシャル」はできたんです。
三和酒類 代表取締役社長 下田雅彦
藤田
そこでも麹。麹って、やっぱりすごいですね。糖化だけでなく、いろいろな働きがありますね。
下田
そう、麹菌というのは、すごいんですよ。日本酒造りには「一麹、二酛(もと)、三造り」という言葉がありますね。これは、酒造りにおいて麹造りがいかに重要なものかということを表す言葉です。麹はお酒だけでなく、日本の食文化すべてに関わるすごく貴重なものですが、けれども、海外に向けては、この麹の価値をあまり伝えてこなかった。なぜかというと、外国の人に麹を説明するのは、ものすごく難しいものですからね。
藤田
確かに、麹としかいいようがなくて。ほかのものにたとえられないですね。

海外への説明が難しい「麹」

下田
醤油(しょうゆ)にしても味噌にしても日本酒にしても、海外に輸出されていますが、麹のことは、あまり語られていないんですよ。
藤田
それは、麹がカビの一種だからでしょうか。
下田
そうですね。カビというと一般的には悪いイメージですからね。説明が難しい。三和酒類では、20年以上前から麹、麹と伝えるようにしているんです。麹造りの技術や麹にまつわる文化を正しく伝えようと。

ひとくちに「麦100%の焼酎」と言いますが、麹原料にも麦を使うことで初めて「麦100%である」と言えるものなんですよね。その麦焼酎を造るために、創業者が相当苦心を重ねて商品を開発してきたのですが、麦麹造りには米麹とはまた違った難しさもあって。途中でもろみが腐ってしまったり、なかなか安定した生産ができなくて、麹には、かなり苦労もしてきたという思いがあるんです。

それだけに、麹文化の酒であることはきちんと伝えないといけない。麹あっての酒造りだということはずっと思ってきましたから。なので新聞広告を出す時などにも、そこはきちんと打ち出しています。
藤田
社内に「麹プロジェクト」を立ち上げられたのも、そういう想いからですか。
下田
麹プロジェクトは、会社のルーツというかアイデンティティとして麹を中心に据えようということですね。我々はまだ麹の奥深さを知らないということもありますから、もっともっと学ぶこともあると思っています。麹文化を識る、愉しむということも。
藤田
私たちが日々、口にしているものは、お酒も食品もほぼ麹の産物ですね。日本人ってすごいと思うのは、醤油には醤油、味噌には味噌の麹菌まで使い分けていることですね。顕微鏡がない時代から種麹を使い分けていたというのは、すごい感受性だと思います。
三和酒類 代表取締役社長 下田雅彦

国菌を中心に据えた日本の酒造り

下田
麹菌は日本の国菌*3ですからね。稲作や酒造りは、基本的には大陸から来たもので、中国や韓国にも、白酒やソジュや紹興酒など米の酒はあります。でも、日本だけが稲についた麹菌を利用するようになり、アスペルギルス・オリゼという学名も付いた。

その国菌を中心に据えた酒造りを行って、独自に酒文化を発展させてきたことを言わずして、中国や韓国の文化と日本の酒文化、食文化は分けられないと思うんですね。私は、もっと、そこのところを発信していきたいと思っているんです。国菌である麹とその文化をしっかり自信をもって伝えていきたいと。*3 国菌:2006年10月12日、公益財団法人日本醸造学会大会で日本にしか存在しない麹菌(Aspergillus oryzae=アスペルギルス・オリゼ)が日本を代表する菌として「国菌」に認定された。
藤田
酒文化と一緒に麹文化も国内外に発信していけますね。海外でも、いいちこスペシャルは高い評価を受けたそうですね。
下田
毎年ロンドンで開催されるIWSC(インターナショナルワイン&スピリッツ・コンペティション)の最高賞である「トロフィー」、それからアメリカの「サンフランシスコ・ワールド・スピリッツ・コンペティション」でも最高メダルである「ダブルゴールド」の評価をいただいて。最初の頃は、まぐれ当たりかと思ったんですが、何回も続いたので、まぐれじゃないと(笑)。
藤田
(笑)。いいちこスペシャルは、製造技術プラス熟成期間も合わせての完成度が評価されたのでは。
下田
そうですね。今までは、そんな長い熟成をかけなくても、十分美味しく飲めるものを造ってきていました。なので熟成に関してはこれからの課題ですね。いいちこスペシャルのように、熟成によって最高の状態に持っていく商品をもっと開発していかなければならない、という考えはあります。
三和酒類 代表取締役社長 下田雅彦海外でも高い評価を得ている「いいちこスペシャル」

もっとお酒の楽しさを伝えなければいけない

藤田
日本酒の業界でも、フレッシュな搾りたての新酒だけでなく、熟成に耐えるお酒造りをする、という姿勢も一部にありました。特にこのコロナ禍では、出荷が止まった状態が続いたこともあって、「待てる酒造り」をするんだ、という流れも出てきているようです。三和酒類では、コロナ禍をきっかけにして、何か変わったことはありますか。
下田
焼酎には日本酒のような劣化の心配はありませんが、コロナ禍で、お酒の意味というものがあらためて皆さんに問われたとは思いますね。なぜ、お酒を飲まないといけないのか、というような。
藤田
お酒は絶対になくてはならないものです。お酒がなければ、人の心は慰められません。
下田
そういうふうに言ってもらえるために、メーカーとしても努力していかないといけないと思いますね。そういう人をより増やすために、よりお酒の楽しさを伝えないといけないと。そうすると、お酒にもさまざまな味わいがあることとか、飲み方、楽しみ方のアピールとか、そういうことの発信は必要だろうなと。
三和酒類 代表取締役社長 下田雅彦
藤田
ご自身では、どんな風にお食事とお酒を楽しまれていますか。
下田
家の庭に面したベランダに大きめの七輪を置いて、火を起こして四季折々の食材を焼いて食べたりしていますね。サザエとかアユとか。一番いいシーズンは、4月の第3週から5月の第2週まで。
藤田
すごい具体的ですね(笑)。
下田
それより早いと寒いし、それよりあとだと蚊が出るし(笑)。4月だと潮干狩りで獲れた貝類が美味しいですね。あとは9月の初めから10月末までの2カ月。これも蚊がおさまってくるので(笑)、十五夜と十三夜の名月を愛でながら、秋ナスやサンマ、それにキノコとか。その時にあった食材を肴に飲みますね。大分の食材は、なんでも美味しいですからね。ワインも大好きなので、地元の肉と合わせたりしますよ。あとは冬のフグちりとか、日本酒を飲むには最高ですね。
藤田
こちらでは日本酒の「和香牡丹(わかぼたん)」も醸されてますね。
下田
はい。三和酒類の日本酒部門では、今、新しい醸造所の「辛島 虚空乃蔵(からしま こくうのくら)*4」を建築中なんですよ。こちらでは、来場の方々に製造工程を見ていただくこともできますし、仕込み体験をしていただくこともできます。楽しみにしていてくださいね。*4 辛島 虚空乃蔵:「米の蔵」は一般客が製造体験できる清酒製造場。売店ではこの蔵で製造した酒を販売するほか利き酒コーナーも用意。「麦の蔵」は発泡酒製造場と、飲食スペースを用意。発泡酒や清酒、地域の産物を使った軽食も楽しめる。2022年5月開場予定。
三和酒類 代表取締役社長 下田雅彦 これが三和酒類の日本酒「和香牡丹(わかぼたん)」
前編はこちら
下田雅彦(しもだ・まさひこ)

PROFILE

下田雅彦(しもだ・まさひこ)

三和酒類株式会社 代表取締役社長 工学博士(大阪大学)
1955年、大分県豊後大野市出身。79年大阪大学工学部醗酵工学科卒業後、清酒メーカー勤務を経て、84年10月三和酒類に入社。主に研究開発部門を担当し、89年に設立された三和研究所研究室長、99年取締役研究所長、2003年常務取締役、09年専務取締役、14年取締役副社長、17年10月に代表取締役社長に就任。
<受賞歴>
1995年(財)日本醸造協会技術賞「麦焼酎の原料処理に関する研究」、99年(財)日本醸友会技術賞「麦焼酎蒸留粕処理と有効利用」、2021年文部科学省令和3年度科学技術賞(開発部門)「焼酎原料用精麦大麦の原料処理に関する開発」

藤田千恵子(ふじた・ちえこ)

PROFILE

藤田千恵子(ふじた・ちえこ)

ライター、作家。酒と醗酵食を中心に日本の食と生産者を捉えた数々のフードライティングを発表。著書に「日本の大吟醸100」「杜氏という仕事」(ともに新潮社)、「これさえあれば―極上の調味料を求めて」(文藝春秋)、「美酒の設計」(マガジンハウス)など。現在、「dancyu」「あまから手帖」等、雑誌の日本酒特集に寄稿。2004年より長野県原産地呼称管理制度日本酒官能審査員。日本の醗酵食品と日本酒を共に味わう「醗酵リンク」主宰。