小泉武夫「発酵は人間の役に立つもの。腐敗は役に立たないもの」

もっと語ろう麹と発酵 Vol.01【前編】発酵は人間の役に立つもの。
腐敗は役に立たないもの

東京農業大学名誉教授小泉 武夫

聞き手:作家・ライター 藤田 千恵子

対談「もっと語ろう麹と発酵」の第1回は、“発酵仮面”という愛称でも知られる小泉武夫先生にご登場いただきます。小泉先生は言わずと知れた我が国の発酵学の第一人者。語れば国内外の知られざる食の話、飲み物の話と、とどまるところを知らず。かたや酒造りに関して健筆をふるう実力派ライターの藤田千恵子氏が、かねてから敬愛する小泉先生に、発酵をテーマにお話を伺います。対談は前後編に分けてお届け予定で、本記事は前編となります。 後編はこちら 写真:三井公一

日本は世界一の発酵王国

藤田
小泉先生の啓蒙のおかげで「発酵」という言葉も発酵食品の魅力もずいぶんと世に広まりました。先生が「発酵仮面」になられたのは、20年ほど前でしたか?
小泉
いや、あれは自分で「発酵仮面」になったわけではなくて(笑)。
藤田
「人は私を発酵仮面と呼ぶ」(笑)。周囲の方々が呼ぶように?
小泉
そうですねえ、いつしか、そんなふうに。
藤田
ご著書やテレビ・雑誌などで発酵の魅力をあまねく広めてくださいましたが、そもそも、ご自分の研究だけではなくて、これを世界に啓蒙しようと思われたきっかけはどんなことだったのでしょう?
(左)東京農業大学名誉教授 小泉武夫先生(右)フードライター・作家 藤田千恵子さん
小泉
日本という国は世界一の発酵王国ですからね。私の「漬け物大全 世界の発酵食品探訪記」(2017年、講談社)という本にも書きましたが、日本には大根の漬け物だけでも87種類、全国に2,000種類もの漬け物があるわけです。ヨーロッパにはザワ―クラウトくらいしかないでしょう? ところが日本には気候風土的にも地理的にも発酵の条件がそろっていて、発酵のための優秀な微生物がたくさんいる。一つひとつの酒蔵や味噌・醤油(しょうゆ)蔵に家付きの酵母がいたり、乳酸菌がいたりするわけです。そんな微生物によってできた食物を日本人は2千年近くもの間食べてきた。そういう意味で、日本の発酵はすごい世界なんです。それをもっと広めないといけないと思ったんですね。

日本の食は発酵がないと成立しない

藤田
多くの日本人はお漬け物やお味噌汁を毎日食べていても、あまりにも身近なものすぎて発酵食品を摂っている、という自覚は持てなかったかもしれませんね。
小泉
2013年に和食が世界遺産になりましたが、そのとき、私は国のユネスコへの登録委員になりまして、和食の成り立ちをみなさんにお話していました。和食は一汁三菜、その原点は一汁一菜です。御飯と味噌汁とおかず、この中にも発酵食品が2つ入っている。味噌汁の味噌、それと漬け物です。発酵食品がなかったら、日本の食は成り立たなかったと思いますね。

その素晴らしい世界をもっと他民族に伝えないといかんと思いました。醤油がなかったらお刺身だって食えないし、煮物には味醂(みりん)が必要だし、酢の物には米酢も使う。塩辛も発酵。もちろん日本酒や焼酎も発酵。日本の食は発酵がないと成立しない。私自身も日本酒がなかったら非常に困ります(笑)。
小泉武夫先生(東京農業大学名誉教授)

東京農大に行って良かった

藤田
先生ご自身も酒蔵のお生まれでしたね。大学も酒蔵の御子息が全国から集まってくる東京農業大学の農学部醸造学科(現在の応用生物科学部醸造科学科)に進まれました。
小泉
そう、これが大正解でね! 私の人生でこれほどうまくいったことはないというくらい、東京農大に行って良かった。なぜかというと、あの学科は1年のときから学生にお酒を仕込ませるんだよ。実学の大学なの。3年生、4年生も冬休みがない。造り酒屋に行って現地で寝泊りして、醸造実習というものをやるんですよね。大学の4年間でお酒をいっぱい仕込んだしワインも造った。もう、いろんなことをしました。うれしかったねえ。その大学で発酵学の道に進んだから、あんまりにも面白い世界と出合えた。発酵というのはものすごく範囲が広いからね。
麹菌

発酵の力は環境にも及ぶ

藤田
発酵の力は環境にも及ぶ、都内を流れる神田川がきれいになったのも発酵の力のおかげ、と以前小泉先生から教えていただきました。
小泉
そうです。水をきれいにするのは環境発酵、生ごみを燃やさずに土に戻すことも環境発酵です。農業の肥料、飼料も発酵の産物ですね。それから医薬の世界にも発酵の力が使われています。抗生物質もビタミン剤も制癌剤も発酵から生まれます。そんなふうに範囲の広い、発酵の大きな世界の中の1つに醸造があるわけですね。
藤田
発酵の中でも人の口に入るものが醸造なのですね。
小泉
口に入る発酵の特徴は、5つあります。1つは、発酵させると腐りにくくなる。これは非常に不思議なことでね。
藤田
発酵と腐敗がどこで分かれるのか、その区別がつかなかった頃に、先生が「発酵は人間の役に立つもの。腐敗は役に立たないもの」とスパッ! と教えてくださって、とても分かりやすかったです。

発酵と腐敗。腐敗は死の世界

小泉
そう。腐敗は死の世界、病気の世界。人間が生きる上で役立つものを造ってくれるものが発酵です。例えば、牛乳を器に入れて真夏に一晩置いておいたら腐っちゃう。それを飲んだら食中毒になって大変なことになってしまう、それが腐敗。逆に乳酸菌を入れれば、ヨーグルトになって腐らなくなり、それが発酵。
藤田
素晴らしい働きです。自然に防腐と保存の役割を果たしてくれるんですね。
小泉
牛乳はチーズにもなるでしょう。私はナポレオン時代にジョージアで作られたチーズに会ってきたことがありますよ。あとね、和歌山の新宮市では、サンマの熟れ鮓(なれずし)の30年ものも食べました。発酵したものは腐りにくい。それはなぜかというと、発酵を促す微生物である菌や酵母は、アンチバイオティクスという他の細菌などの侵入阻止物質を造るからなんですよ。要するに、自分の陣地で一定の数を占めてしまうと、他の菌が来ても自分の陣地には侵入させにくくするんですね。

発酵の力で栄養価が高まる

藤田
発酵の過程を経ると、熟成はしても腐敗にはならないんですね。
小泉
そう。さらに2つ目の特徴として発酵食品になれば、非常に栄養価が高まる。例えば、大豆そのものと納豆菌を増殖させた納豆とでは、スタミナ源のアミノ酸が130倍ぐらい違うんですよ。そして、非常に美味しいものにもなる。美味しくなる理由は、発酵菌の力で大豆のたんぱく質が分解されて、旨味の素のアミノ酸になるから。だから、とても美味しくなる。
藤田
納豆大好きです。今日も食べてきました。
小泉
それはいいことだ。それから、食物が発酵するとビタミンも増やしてくれる。ペプチドなども増えますね。人の身体にとって良いものがいっぱい増えてくるんです。あと、発酵食品と普通の食品の一番の違いは、発酵菌という生命体が人の身体の中に入ってくるということ。そこがほかの食べ物とはまったく違います。例えば、ヨーグルトをスプーンで1杯食べれば、乳酸菌という生命体が何億と身体に入ってくるわけです。菌体そのものがパーッと入ってくるということは、ほかの食べ物にはないことです。そして、ものすごく強い免疫力を菌体そのものが持っている。そこが発酵食品とほかの食品との大きな違いです。
藤田
発酵食品は、身体を強くしてくれるものとして、とても頼もしい食品なんですね。
(左)フードライター・作家 藤田千恵子さん(右)東京農業大学名誉教授 小泉武夫先生

発酵食品は究極の自然食品

小泉
そして発酵食品の3つ目の特徴は、匂いと味が元々のものとはまったく違うものになるということです。牛乳とチーズは全然違う、大豆と納豆も違う、鮒(ふな)と鮒ずしも、まったく違うものだよね。臭いと味がまったく違うものができるというのは、とても特徴的なことですね。でも、発酵食品がクサヤとか納豆とか鮒ずしとか、個性のある臭いのものばかりかというとそうでもなくて、パンの匂いなんていい匂いでしょう。あと、吟醸酒も非常にフルーティーな香りがしますね。味と香りが原料とは全然違うものになるんです。4つ目の特徴は、究極の自然食品ということ。発酵食品は添加物が一切なくて、そのまま食べることができます。
藤田
化学調味料なしでも旨味はあるし、保存料なしでも保存が利きますね。
小泉
5つ目は文化性、歴史性というものです。これが、非常に深い。さまざまな地域に、古くからの歴史を持つ伝統的な発酵食品が存在しているわけですからね。ですから私は、発酵にまつわるこれらの素晴らしい情報を日本の皆さんにお知らせしようと発信してきたわけなのです。

後編へ続く
小泉武夫(こいずみ・たけお)

PROFILE

小泉武夫(こいずみ・たけお)

1943(昭和18)年、福島県の酒造家に生まれる。東京農業大学名誉教授。農学博士。発酵学者、食文化論者、文筆家。専門は食文化論、発酵学、醸造学。現在、鹿児島大学、福島大学、別府大学、石川県立大、島根県立大学ほかの客員教授を務める。著書は「食あれば楽あり」(日本経済新聞社)、「発酵食品礼讃」(文春新書)、「食と日本人の知恵」(岩波現代文庫)、「食の世界遺産」(講談社)、「FT革命―発酵技術が人類を救う」(東洋経済新報社)など多数。単著だけで150冊にのぼる。また、特定非営利活動法人発酵文化推進機構理事長、発酵のまちづくり全国ネットワーク協議会会長、「和食」文化保護・継承国民会議委員(農水省大臣官房)などでも活躍。食に関わる様々な活動を展開し、発酵の魅力を広く伝えている。

藤田千恵子(ふじた・ちえこ)

PROFILE

藤田千恵子(ふじた・ちえこ)

ライター、作家。酒と醗酵食を中心に日本の食と生産者を捉えた数々のフードライティングを発表。著書に「日本の大吟醸100」「杜氏という仕事」(ともに新潮社)、「これさえあれば―極上の調味料を求めて」(文藝春秋)、「美酒の設計」(マガジンハウス)など。現在、雑誌「あまから手帖」に「地酒の星」、「住む」に「蔵のたからもの」連載中。2004年より長野県原産地呼称管理制度日本酒官能審査員。日本の醗酵食品と日本酒を共に味わう「醗酵リンク」主宰。