宇佐市で食肉加工業を営み、さらにそのノウハウを生かしてジビエ事業を手がけるえとう 窓口(Wエンジン)さん

大分ゆかりのあの人 第20回30年ぶりにUターン。大分県民の親戚のおじさんとして、魅力いっぱいの“おおいたの窓口”になりたい

お笑い芸人えとう 窓口(Wエンジン)

2025年、チャンカワイさんとのお笑いコンビ「Wエンジン」が結成25周年を迎えたえとう窓口さん。2022年には約30年ぶりに地元・大分へ家族と共にUターンしました。芸人としての原点や苦労していた時代、移住の決断、そして大分で見つけた新たな魅力についてお話を伺いました。
文:青柳直子 / 写真:三井公一

西大分イチの人気者が芸能界を目指して上京!

――“元気と笑顔でご縁を繋げます!!”と名刺に書かれている通り、元気な笑顔が魅力的なえとう窓口さんですが、子どもの頃から人気者だったのですか。

いやもうお恥ずかしい話なのですが、西大分の2クラスしかない小学校でね、面白くなくても元気がいいだけで人気者になれたんですよ。前の日にテレビでやっていたお笑いとか先生のモノマネとかをするだけでウケてましたから。ちなみに僕の人生のモテピークは中高生時代です。バレンタインのチョコレートも30個とか40個とかもらいましたよ。

高校生になって初めて「付き合ってください」と告白された時、「僕はみんなのものだから無理だよ」って真顔でお断りしました(笑)。ここがピークです。その後の人生は転げ落ちる一方ですよ。調子に乗った僕も悪いし、笑って調子に乗せたみんなも悪い。

お笑い芸人「Wエンジン」えとう窓口

ただただうるさいだけだった僕が、高校生になって初めて友達とコンビというものを組み、文化祭に出たんです。2人で笑いながらネタを作って、ネタ合わせをして、稽古して。それが人前でウケた。その感動は、それまでのものとは全く違っていて「あ、これだ!」と思いましたね。

――すさまじいモテ伝説! 高校時代に組んだお笑いコンビがきっかけで、お笑い芸人になろうと思われたのですか。

目立ちたがり屋が根本にあるので、とにかく有名になりたい、芸能界に入りたい。だったら「東京に行こう!」と思い、東京の大学に進学しました。周りには反対されました。というのも、家が貧乏だったんですよ。家業が大分合同新聞の販売店だったのですが、父親がくも膜下出血で倒れ、しかも借金が発覚して。小中高時代の10年間、家計を助けるために新聞配達のアルバイトをしていました。寒すぎて手がかじかんで、お湯に手を浸けて泣いたこともありました。上京することは当時の僕の究極のわがままだったんです。

大学で大分出身の人と出会い、意気投合して渋谷の劇場に何度か出たりしましたが、本気でお笑いの道に行くとなるとなかなか難しいですよね。彼は大分に帰ることになり、実は高校時代の相方も東京に出てきていたのですが、就職することになり。そして僕は大学卒業後、大阪のNSC(吉本総合芸能学院)に入学し、今の相方(チャンカワイ)と出会いました。大分の2人とコンビを組めなかったから今の相方に出会えたというのも、運命なのかなと思います。そして2025年、コンビ結成25周年を迎えました。

お笑い芸人「Wエンジン」えとう窓口

――Wエンジンといえば、モテない男の「惚れてまうやろ!」「気を付けなはれや!」がキメ台詞のコントが有名ですが、コンビとしてのターニングポイントはいつですか。

忘れもしない、2008年の「爆笑レッドカーペット」(フジテレビ系)です。モテない男のコントで初出場にして「レッドカーペット賞」(毎回番組の最後に審査員に選ばれるその日の優勝者)をいただき、そこから一気に仕事が増えていきました。

2000年のコンビ結成から約8年間、当たり前ですけど簡単じゃなくて、ライブとアルバイトと先輩付き合いに明け暮れる日々。当時のお笑いだけの収入は、年収にして2、3万円でした。僕は30歳を過ぎていて、個人としてもコンビとしても行き詰まってもがいていた時にまるで神様がぴょんと降りてきた、みたいな感覚でしたね。

しかもそれが、事務所(ワタナベエンターテインメント)の先輩方にアドバイスをもらい「宴人(えんじん)」から「Wエンジン」に改名した年だったんです。当時、「改名すると売れる」というジンクスがありましたが、僕たちは改名したからというより、人の意見を聞くようになった、その姿勢がプチブレイクにつながったのかなと思っています。

苦労が実を結びブレイク。「過去は変えられる」

――モテない男のコントでは、えとうさんは「惚れられる側」の女性役ですね。

そうなんですよ。何年か女性役をしているうちに自分でも「うまいな」と思うようになりました(笑)。 最初は海外メーカーのフリーサイズの服を買ったりしてどうにか女性らしく見せていたのですが、そのうちファンの方がかわいいバッグやカチューシャなどをプレゼントしてくれるようになりまして。このネタをやり始めた2007年当時と、2010年のDVD発売時を見比べるとずいぶん洗練されているので、機会があれば見比べてみてください。

画像提供:株式会社コンテンツリーグ

このモテない男のコントはチャンカワイの実話を基にしています。本人にとっては辛い思い出が、芸人としてのブレイクにつながったんです。

そしてWエンジンが初めて大分で単独ライブをやるという時、大分合同新聞から取材を受けました。実は大学時代の相方がUターンして大分合同新聞で働いていたんです。子どもの時に辛過ぎて泣きながら配達していたあの大分合同新聞に、時を超え、Wエンジンとして載ったということ。モテずに辛い思いをした相方の経験も含めて、過去の苦労があったからこそこの瞬間があるんだな、自分自身の捉え方次第で「過去は変えられるんだ」ということに気づきました。

「大分に帰るぞ!」大人気番組でUターン宣言

――そして2022年2月に放送された「大改造!!劇的ビフォーアフター」(テレビ朝日系)で大分市内の古民家をリフォームし、お母様と一緒に暮らすため、千葉県富津(ふっつ)市からご一家4人でUターンされることが明かされました。

元々は千葉県で母と同居するつもりだったということ。実家が坂の上にあり、高齢になった母にとっては登りがキツいということ。当時、子どもが3歳と4歳で、移住するなら小学校に上がる前がいいということ。これら番組内で語った理由はどれも本当です。でも、やっぱり根本は自分じゃないですか。当時、僕は仕事の8割が九州、大分でしたし、コロナ禍で先が見えない状況でした。そんな中、「帰らないと」ではなく、「30年ぶりに大分に帰りたい!大分でちゃんと活躍して一旗揚げたい!」と思ったんです。それは18歳の時、周りの反対を押し切って「東京に行こう!」と思った時と同じような心境でした。

――奥様は、えとうさんが大分に帰ると決めたことに対してどのようにおっしゃっていましたか。

ひとつの反対もなかったです。「パパがそう決めたんだったら応援する」と言ってくれました。妻は愛知県出身ですが、結婚と同時に千葉県富津市に来てくれて、すぐに2人の息子の妊娠・出産・子育てが始まりました。その中でママ友や知り合いを作り、5年間かけて築いた地盤があったにもかかわらず、「パパのためだったらなんでもするよ」と覚悟を決めてついてきてくれました。本当にかっこいい人なんですよ。

お笑い芸人「Wエンジン」えとう窓口

ちなみにUターンしてきた大分市内の家だけでなく、千葉県富津市の家も、母と弟が住んでいた実家も、3軒とも「大改造!!劇的ビフォーアフター」で“匠”の柴田達志(しばた・たつし)さんにリフォームしていただきました。さらに妻を紹介してくれたのも柴田さんです。柴田さんと番組にはご縁をつないでいただき、本当に感謝しています。

都市と自然の二刀流。住んでみて改めて気づいた大分市の魅力

――ドラマチックなUターン劇から約3年半。実際に暮らしてみての感想はいかがですか。

こんな幸せはないなと思います。自己中心的な考え方ですが、自分の生まれ故郷で息子2人が育ち、ひょっとしたら僕の母校に通うかもしれない、なんて考えるとうれしくて仕方ないです。

仕事面でも「大分で頑張りたい」と誓った想いが体現できつつあります。10年以上関東から通いながら出演していた九州ローカルの旅番組「前川清の笑顔まんてん タビ好キ」(九州朝日放送)も、大分のレジャー情報番組「れじゃぐる」(大分朝日放送)も、引き続き出演させていただいています。さらに大分に帰ってきたことで、しゃべりがうまくない僕がラジオ番組を持たせてもらうことになりました。他にも行政や地域の広報番組や移住促進・子育て関連のイベント、地元の印刷会社さんのCMなどやらせてもらって、収入面だけでなく「自分の居場所」ができたことが本当にうれしいです。

千葉に住んでいた頃は、九州で仕事を終えて家に着くまで5、6時間かかっていたのに、今は数分で帰れるんですよ。家族との時間、仕事、自分の気持ちのバランスがとてもよくて、この3年半は移住してよかったなと思うことばかりです。

さらにありがたいことに、身内だけでなく、道行く人みなさんが「おかえり」「大分で頑張ってな」「よう帰って来てくれた」と声をかけてくださるんです。これはもう“移住プチブレイク”ですね(笑)。でも、本当の勝負はこれからです。この選択をこれからもよしとするために、ますます頑張るつもりです。

大分市内での撮影中、ファンに声を掛けられ笑顔で応じるえとう窓口さん大分市内での撮影中、ファンに声を掛けられ笑顔で応じるえとう窓口さん

――では、大分に戻って改めて感じる大分の魅力を教えてください。

都市と自然の「二刀流」と僕は呼んでいますが、今暮らしている大分市は充実した教育や医療といった都市機能と豊かな自然、どちらもあって、とても住みやすいところだなと実感しています。

僕の子ども時代から変わっていない自然といえば、まずは佐賀関(さがのせき)。小学生の頃に泳いだそのままの美しさで透明度がすごいんですよ。腕のあるプロデューサーに、番組でぜひ取り上げてもらいたいくらいです。

それから、柞原(ゆすはら)八幡宮。子どもの頃、遠足や初詣で行った風景とまったく変わりません。きっと何百年も変わってないんだと思います。そこに今、家族と一緒に行くことに不思議さを感じています。

温泉ソムリエ・えとう窓口イチオシの極上温泉

――えとうさんは温泉ソムリエの資格をお持ちですが、温泉好きはいつからですか。

元からと言いたいところですが、40歳になったくらいからですね。暑い日に汗を落として、ザパーンとお湯に浸かる爽快感、寒い時にじわーっとあたたまった時に思わず出る「あぁ」。こういった温泉の良さを分かったのが40歳でしたね。芸人ってネタの次に「何できる?」となるので、ただの温泉好きより資格や称号があったほうがよいと思い、温泉ソムリエ*1の資格と「別府八湯温泉道(べっぷはっとうおんせんどう)名人*2」を取りました。おかげで同じ事務所のアンガールズがやっている広島の番組、相方がやっている東海地区の番組にも温泉ソムリエとして呼んでもらいました。

画像提供:(左)温泉ソムリエ協会、(右)別府八湯温泉道 画像提供:(上)温泉ソムリエ協会、(下)別府八湯温泉道
画像提供:別府八湯温泉道 *1 温泉ソムリエ:温泉ソムリエ協会(本部:新潟県妙高市)が運営する民間資格。取得には、温泉分析書の読み方や入浴法などを学ぶ認定セミナーへの参加などが必要。
*2 別府八湯温泉道名人:別府市内の8つの温泉郷「別府八湯」(浜脇・別府・観海寺(かんかいじ)・堀田・明礬(みょうばん)・鉄輪(かんなわ)・柴石(しばせき)・亀川)を対象とした入湯修行(スタンプラリー式)。約150の温泉施設が参加しており、そのうち88湯を巡ってスタンプを集めると「温泉道名人」に認定される制度。

全国的に温泉の枯渇問題が取りざたされていますが、加水、加温、循環すると温泉の成分が弱まるんですよね。そこで、大分の温泉ですよ。大分の温泉は源泉かけ流しが当たり前ですが、「当たり前じゃないよ」と強く言いたい。世界中の11種類の泉質のうち10種類が大分県内にありますし、本当に大分の温泉は奇跡なんです。大分の温泉は源泉の数、質、量ともに豊富で、世界一だと思っています。

――温泉ソムリエのえとうさんが世界一だと断言する大分の温泉。その中でもイチオシをぜひ教えてください。

別府や由布院のすごさ、知名度は言わずもがなですが、僕が大分市出身だから言うわけじゃないんですけど、大分市内の温泉がこれまたいいんですよね。温泉は大きく分けると、別府に代表される火山性の温泉と植物由来のモール泉の2つがあります。大分市内ではモール泉が多く、ウーロン茶やコーヒーのような茶褐色でとろみがあるのが特徴です。もうこのとろみがね、たまらないんですよ。

具体的には、「CITY SPA てんくう」、「良の湯舞千花(よしのゆまいせんか)」、「まるた屋温泉西方の湯(さいほうのゆ)」、「神崎温泉 天海の湯(てんかいのゆ)」が好きですね。どこも源泉かけ流しで、ツルツルを通り越して、トゥルトゥルになります。別府や由布院だけでなく、大分市内の温泉にもぜひ1回入ってもらいたいです。

もうひとつ、温泉ソムリエとして伝えたいのは温泉の「転地効果」についてです。

いくら上質なお湯でも四畳半のスペースで入るのと、目の前にバーンと広がる別府湾を見ながら入るのとでは全然違いますよね。非日常な景色を満喫しながら入る。温泉だけでなくご当地のおいしいものを食べたりしながら道中も楽しむ。これらも温泉の大事な要素です。つまり、温泉地に行くと決めたところからストレスが発散されるんですね。そういった意味でも大分は最高ですよ。雄大な由布岳を見ながら、広大な久住高原やくじゅう連山を見ながら、その他にも豊かな自然に包まれながら入れる温泉がたくさんあります。大分の自然について、温泉について、知りたい方はぜひ僕のYouTube「えとう窓口チャンネル」をご覧ください(笑)。

大分のソウルフードはからあげ、とり天、ニラ豚、甘醤油、麦焼酎!

――たくさんのおすすめ温泉をありがとうございます。ご当地グルメについてもぜひ教えてください。

大分といえば、からあげ、とり天、ニラ豚といったソウルフードが外せません。家庭でもよく食べますし、どこのお店でも間違いなくおいしいんですよ。そして、九州ならではの甘醤油。これさえあれば、豆腐も目玉焼きも刺身も全部おいしくなります。煮物に使っても抜群です。

お酒はあまり飲めないのですが、最近ハマっているのが、「西の星」の炭酸割り、通称「にしたん」です。とにかく飲みやすくてどんな料理にも合うので、お酒好きの義父に今度プレゼントしようと思っています。

お笑い芸人「Wエンジン」えとう窓口

“みんなの親戚のおじさん”として次のフェーズへ

――それでは最後に、えとうさんの今後の活動について教えてください。

「前川清の笑顔まんてん タビ好キ」に出演させていただくようになって14年目になります。コンビでのターニングポイントが「爆笑レッドカーペット」ならば、個人の仕事のターニングポイントは間違いなくこの番組です。前川清さんと一緒にお仕事させていただくなんて、望んだって叶うことじゃありません。それに、実は母が前川さんの追っかけだったんですよ。息子が、大好きなスターの番組でレギュラーになるなんて、奇跡ですよ。

この番組に出させてもらうようになって、お父さんお母さん世代からも声をかけてもらえるようになりました。九州、大分を旅していると60代70代の方々が「頑張りよ」と熱烈に応援してくださるんです。

前川さんには本当にたくさんのことを教わりました。一般の人たちと出会うアポなし旅番組ですので、当初は僕が面白いことを言わなければと気負っていたんです。でも「違うよ、一般の方が主役なんだから、僕らは横にいるだけでいいんだよ」とおっしゃって、あの大スターが地べたに座って、訪れた町の人たちと普通に会話しているんですよね。そんな姿を見て、僕も自然体で臨むことができるようになりました。

2025年8月の放送で、大分市佐賀関幸の浦(さがのせきこうのうら)に行きました。佐賀関には江藤家のお墓があるので、年に何度も行っているのですが、この時のロケでは、父の若い頃を知っている人と出会いました。その方が父の20代の頃の写真をわざわざ探して持ってきてくださったんですが、僕が見たこともないような明るい笑顔で。父は僕が中1の時に倒れ闘病生活を経て、高2の時に亡くなりました。先ほどお話しした通り、父のことで苦労しましたから、決して美談としては語れないのですが、父の笑顔の写真を見た時、もしかしたらこの人の子だったからお笑いの道に行ったのかもしれないなと思ったんですよね。明るくて賢くて面白い人だったと地元の方から直接聞くことができ、30年以上ぶりに父にいい印象を持つことができました。

改めて自分のこれまでの人生を振り返ってみると、相方、前川さん、“匠”の柴田さん、妻と出会い、そして今、大分にUターンしてきて、みなさんから声をかけていただけるようになりました。自分は本当に人に恵まれているなと思います。これからは大分県民の“親戚のおじさん”として、温泉、自然、グルメと魅力いっぱいの“おおいたの窓口”として、ますます地元に根を張って、地元に恩返しできるように頑張っていこうと思っています。

えとう窓口(えとうまどぐち)

PROFILE

えとう窓口(えとうまどぐち)

1973年4月23日、大分県大分市生まれ。2000年に相方のチャンカワイとコンビ結成。2008年、宴人からWエンジンに改名。同年の「爆笑レッドカーペット」(フジテレビ系)出演をきっかけにブレイクを果たす。
2022年2月の「大改造!!劇的ビフォーアフター」(テレビ朝日系)で大分市内の古民家リフォームが放送され、千葉県富津市から大分県大分市へのUターンが話題となる。
温泉ソムリエ、 別府八湯温泉道名人認定、おんせん県おおいたおもてなしサポーター。
レギュラー番組
「前川清の笑顔まんてん タビ好キ」(テレビ朝日系/九州朝日放送)
「れじゃぐる」(テレビ朝日系/大分朝日放送)
「えとう窓口のエンジン全開」(OBSラジオ/JRN系)
「えとう窓口の大分がんばる人」(OBSラジオ/JRN系)