宇佐に広がるニシノホシ畑

大分麦焼酎「西の星」誕生物語【後編】 同じ志を持った人たちの熱意が導いた、新たな大分麦焼酎「西の星」の誕生

三和酒類本社のある大分県宇佐市を中心に生産されている二条大麦「ニシノホシ」。大分県や宇佐市、三和酒類など多くの関係者が力を合わせて作り出した、麦焼酎の製造に適した大麦品種です。これを原料とする大分麦焼酎®「西の星」はそのまろやかな味わいで県内、県外で高い評価をいただいています。関係者の証言をもとに、ニシノホシ、そして西の星の誕生までの歴史を前後編でたどります。 前編「何もないところからのスタート。産官協同研究で、焼酎に好適な大麦の新品種を開発」 文:藤田千恵子

「優良な品種」だけではたどり着けなかった困難な道のり

焼酎の醸造適性と大分での栽培適性とを共に備えた二条大麦「ニシノホシ」。その優良な性質から「焼酎製造に適した大麦品種」に選定されたものの、その実用には至らないままの1998(平成10)年7月。大分県宇佐両院地方振興局農業振興課長(所属・役職は当時。以下同様)の森下幸生氏は、再び三和酒類株式会社への訪問を試みた。ニシノホシを焼酎の原料として使ってほしいという、引き続きの打診のためだ。

当時の大分県宇佐両院地方振興局農業振興課長 森下幸生氏(写真:三井公一)当時の大分県宇佐両院地方振興局農業振興課長 森下幸生氏(写真:三井公一)

当時の大分県宇佐両院地方振興局農業振興課長 森下幸生氏(写真:三井公一)当時の大分県宇佐両院地方振興局農業振興課長 森下幸生氏(写真:三井公一)

宇佐で栽培するニシノホシを、地元企業である三和酒類が焼酎原料として使用すれば、新たな地産地消の流れが生まれ、宇佐の農村が活性化する。生産者の麦作りへのモチベーションも高まる。その構想は、農業と酒造業のどちらにとってもプラスに働くはず、と森下氏は考えていた。

しかし、2度目の訪問の際も三和酒類の慎重な姿勢は変わらなかった。応対したのは前回と同じく、代表取締役常務の和田久継。和田自身もニシノホシの優良性や可能性は認識しており、熱意ある森下氏たちの提案にも前向きに応じたい。しかし、契約栽培にあたっては、マーケットの構築や試験工場の建設など、さまざまな検討課題があり、会社の対応窓口として、それらを解決するめどが立っていない状況で、首を縦に振ることはできなかった。

三和酒類としては、麦焼酎の原料の確保だけで終わるのではなくて、その原料で商品を開発し、そのマーケットまでをつくらなければならない。地元産のニシノホシを本格的に使用するというのであれば、工場内に新たな実証ラインの整備も必要となる。さらには、栽培を依頼することになる農業の現場への配慮もあった。大麦の畑の管理は難しいこと、特に稲作との二毛作の場合には排水対策*が難しいことは、和田も知識として頭の中に入っていた。*二毛作での排水対策:水田から畑への転換には、有効な排水対策が肝要である。排水路で土壌表面から横方向に排出する地表排水、土壌の下方に水を浸透させる地下排水といった方法で、秋に水田から麦畑に切り替える時だけでなく、雨などによる滞水時に早く水が引くようにする技術が求められる。

「やってみないと分からないとは思う。けれども、つくるのであれば、100トン200トンではなく、1000トンくらいの規模で製造に臨みたい。そこまでの規模で原料のボリュームを増やしていこうとする際に、大麦を作っていただく生産者さんとどう関わっていくのかということは、きちんと考えなければなりませんでした」と和田は当時を振り返る。

そこまで大きな規模の栽培となると、小さなラボ(研究所)としての製造ではなく、企業の商品としての原料をどう見るか。その具体像が見えてくるまでは、話し合いを重ね、多方面から検討する必要があった。

「ニシノホシは本当に良いものだという共通認識を、関わる方全員が持たないと。単に良い大麦だから作るということと、新しい品種のニシノホシからは美味しい焼酎ができるんだという意識とでは、全然違いますから」(和田)

「節目の日」1998年9月7日

対する森下氏も熱意と粘り強さを持ち合わせていた。期待どおりの回答が出なかった2度目の話し合いのあとには3度目の話し合いの日程を提案し、約束を取り付けて帰っていく。3度目の話し合いの帰りにも、次の4度目の約束を取り付けた。

「10人近くで押し掛けた」と森下氏が述懐する、その4度目の会合をもった1998年9月7日に、大きく潮目が変わった。

この日、森下氏と同行したのは、大分県の宇佐両院地方振興局農業振興課、農業技術センター、宇佐農業改良普及センターなど各所の職員たち。三和酒類側では、和田、課長の久継靖雄(ひさつぐ・やすお)らが対応にあたった。そして和田から、ニシノホシを実用化レベルで実証試験するとの提案があった。驚き、喜ぶ森下氏と関係者に和田は、将来的には1000トンくらいの規模にしていきたいが、まずは原料麦で50トン程度が必要であると告げた。

この日のことは、「節目の日」として和田の記憶にも強い印象として残っている。

「ニシノホシの使用について慎重に検討を続けてきた際に後押しをしてくれたのは、やはり『地産地消』という考え方です。何度も通ってきてくださっていた森下さんの熱意は十分に伝わっていました。こちらとしても、“大麦のことなら三和酒類、三和研究所”という存在になろうと、その思いでやってきていました。研究所と製造の現場は二人三脚の関係で、私は製造寄りの立場にありました。ニシノホシの原料麦50トンという数字は、麦の精麦適正、もろみの出来具合、製造のコストなどを実用化レベルで調べるために、最少量で見積もっても必要な量でした」(和田)

地元産のニシノホシを本格的に使用する。三和酒類側には、企業としての採算ベースに乗せながら地域貢献を果たすことも地元企業としての使命だという決意があった。

「節目の日」を振り返る三和酒類の現・相談役 和田久継(写真:三井公一)「節目の日」を振り返る三和酒類の現・相談役 和田久継(写真:三井公一)

県庁への直談判により、異例の早さで予算確保

事態は一気に進展。だが、この朗報を受けた森下氏には、さらにもうひとつクリアしなければならない難題があった。それは、ニシノホシの買い入れ価格についての交渉だ。優良品種ではあるものの、ニシノホシには従来の品種と比べると「価格が安い」という難点があった。

宇佐両院エリアですでに栽培されている小麦などと比べるとニシノホシの価格は、1kg当たり40円安く、これを10aの畑の収量で換算すると、6万円で取引されている小麦とは1万円以上の差額が出ることになる。

新たにニシノホシの栽培を生産者に依頼する際に、この差額は大きな障害となってしまうに違いない。そう懸念した森下氏は、まずは三和酒類に対して、ニシノホシのプロジェクトを成功させるためには、通常の買い入れ価格に加えて、キロ当たり数十円の上乗せが必要となることを率直に伝えた。

このことで、せっかくのプロジェクト開始が白紙に戻ってしまうかもしれない、という不安を抱えながらの提案だったが、和田は態度を変えることなく、「具体的なことは今後詰めていきましょう」と応じた。このやりとりは、森下氏が「企業としての決断力と強い意志を感じた」瞬間だったという。

その後、森下氏が奔走したのは、ニシノホシの栽培を始めるための予算の獲得だった。新品種であるニシノホシの栽培地を仮に20ha確保しようとした場合、生産者と栽培開始の交渉をするには、従来品種との差額で200万円ほどの予算が必要だった。

実証試験の段階から、その負担を三和酒類に強いることはできないと考えた森下氏は、「県全体の麦作振興の大きな励みとなり、生産調整のためにも絶対に必要なこと」として県庁に直談判し、異例の早期予算獲得を実現した。

この森下氏の奮闘を「森下劇場」と呼んで応援しながら見守っていたのが、大分県農業技術センターの白石真貴夫氏だ。白石氏は、かねてより大分県の職員として、国が選定した大麦品種の中から、大分県内の栽培環境に適したものを選定する仕事についていた。異なる品種を試験場内で栽培し、その過程を観察してデータを蓄積してきた専門家だ。森下氏の依頼を受けて、今度は白石氏が農業の現場へと走ることになる。

当時の大分県農業技術センター担当者 白石真貴夫氏(写真:三井公一)当時の大分県農業技術センター担当者 白石真貴夫氏(写真:三井公一)

農家一人一人を回って丁寧に説明

森下氏から白石氏への依頼によれば、ニシノホシの実用化レベルに向けて、焼酎の仕込みに必要な量を栽培するには、約20haの栽培地を確保しなければならなかった。依頼を受けた時点で、その年の種まきの時期までには、すでに2カ月を切っているというギリギリの状態だ。

「比較的大きな農家を回って、試作をお願いする作戦」と白石氏は振り返る。水田面積が広く、新しいものへ興味も持つ農家が多い宇佐市内の農家一人一人に説明して回った。

それまで市内で米の裏作として栽培されていたのは、うどん等の原料(小麦粉)になる小麦が主だった。当時も今も宇佐平野の稲の田植え時期は6月20日以降だが、小麦の収穫が6月上旬~中旬にかかるため、田植えの準備が重なって農家は大変だった。それに対し、ニシノホシは早生(わせ)品種で収穫が5月下旬になるため、農家の作業が軽減する他、小麦と二条大麦の作付を組み合わせることで経営規模も拡大できることから、農家にとっての有益性を説明しやすかった。

ニシノホシの栽培を導入し、水田を効率的に利用して農家の収入を上げていくことは、ひとつの大きな目標だ。ただし、ニシノホシを栽培することで従来の契約麦が減少することのないよう、麦全体の面積拡大をはかること、ニシノホシの実証圃(ほ)を設置するにあたっては、なるべく従来の産地を外すことを大分宇佐農業協同組合とも確認。こうして丁寧な説明を続けた結果、初年度であったにもかかわらず、17haの耕地獲得を達成した。

当時の大分県農業技術センター担当者 白石真貴夫氏(写真:三井公一)当時の大分県農業技術センター担当者 白石真貴夫氏(写真:三井公一)
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当時の大分県農業技術センターの活動の様子(写真は水田利用部による1996年の圃場検討会。写真提供:大分県農林水産研究指導センター農業研究部水田農業グループ)

駆け回りながらの耕地確保の後、11月に栽培開始。関係者たちの祈るような気持ちを受けながらニシノホシは成長していき、1999(平成11)年の5月下旬には約62トンの収穫を得た。三和酒類から提示された50トンを超えた大麦の収量は、試験製造には十分な量だった。

運命の試飲会。「あきらかに味が違う」

初年度分のニシノホシを受け取った三和酒類では、それを原料として1999年10月に本格麦焼酎の仕込みを開始。同時に従来品種の二条大麦「ニシノチカラ」を原料とした焼酎も同じ条件で仕込み、双方の違いを検証することになった。2カ月後の12月には、完成した焼酎を関係者一同にお披露目するための試飲会を開催。当日は、三和酒類の社員たちのほか、ニシノホシ栽培に情熱を傾けてきた白石氏、森下氏もはやる思いで会場へと駆けつけた。

1999年12月、ニシノホシを使った焼酎の試飲会(農文協発刊「農業技術大系 作物編 第4巻 畑作基本編・ムギ」より)1999年12月、ニシノホシを使った焼酎の試飲会(農文協発刊「農業技術大系 作物編 第4巻 畑作基本編・ムギ」より)

試飲はブラインドで行われたが、ニシノホシで製造した焼酎を飲んだ白石氏は、「あきらかに味が違う」と感じたという。「蒸留しても原料の良さを感じられる。原料の違いでこれだけ風味が変わるということを試験、研究でちゃんと実証できたことは大きいと思いましたね」(白石氏)

当初は不安も抱えつつ試飲に臨んだ森下氏だったが、実際に新品種で造られた本格麦焼酎を味わい、今までの焼酎にはなかった香りとなめらかな飲み口を認めた際に、不安が安堵へと変わった。さらには、普及センター所長の田中勲氏が「これは酒飲みの焼酎ではない。今までの焼酎のイメージとは違う。香りが良くて優しくて、ワイン感覚で女性に受ける」と発した言葉は、ニシノホシによる新しい焼酎を飲み手が歓迎した決定打に感じられたという。

当時の大分県宇佐両院地方振興局農業振興課長 森下幸生氏(写真:三井公一)当時の大分県宇佐両院地方振興局農業振興課長 森下幸生氏(写真:三井公一)

当時、焼酎は酒好きの男性が飲むものというイメージが強く、会場にいた面々にとって、この「女性に受ける」という言葉は、この焼酎が幅広い飲み手に受け入れられるであろうことを象徴する言葉として響いた。

その場で田中氏の言葉を聞いていた三和研究所の下田雅彦も、その言葉には強烈な印象を持った。ラボからの試作を重ねてきた下田は、その新しい味わいを意図してきた一人だ。

三和酒類 現・取締役 会長 下田雅彦(写真:三井公一)三和酒類 現・取締役 会長 下田雅彦(写真:三井公一)

「侍というか、居合抜きの先生のような男性が、的を射た言葉を発してくれたと思いましたね。女性に受ける焼酎だと。私自身は、清酒っぽい焼酎が出来たと思っていました。香りも華やかだし、なめらかな酒質でするっと入っていく。酒造好適米の山田錦のような麦を目標にしていたので、そんなつながりもある味わいなのかなと」(下田)

下田との二人三脚でニシノホシによる新たな味わいを目指してきた和田も、同様の感慨に打たれた。「これならいける、と思いました。事前に社内での手応えはありましたが、でも関係者が皆、納得しないことには、と思っていたので。飲んだ皆さんが同じような思いならよかったなと」(和田)

三和酒類 現・相談役 和田久継(写真:三井公一)三和酒類 現・相談役 和田久継(写真:三井公一)

下田との二人三脚でニシノホシによる新たな味わいを目指してきた和田も、同様の感慨に打たれた。「これならいける、と思いました。事前に社内での手応えはありましたが、でも関係者が皆、納得しないことには、と思っていたので。飲んだ皆さんが同じような思いならよかったなと」(和田)

この肯定的な結果を得て、2000(平成12)年には、県の仲介で大分宇佐・安心院農業協同組合と三和酒類とは、ニシノホシの栽培協定を締結。宇佐・安心院地区で契約栽培が開始となる。2001(平成13)年6月には、ニシノホシを原料とした新商品である大分麦焼酎「西の星」が発売開始となった。

ニシノホシを使用した大分麦焼酎「西の星」の新商品発表会(農文協発刊「農業技術大系 作物編 第4巻 畑作基本編・ムギ」より)ニシノホシを使用した大分麦焼酎「西の星」の新商品発表会(農文協発刊「農業技術大系 作物編 第4巻 畑作基本編・ムギ」より)

自分の作った大麦が焼酎になる喜び

さて、ニシノホシの栽培依頼を受けた葛原(くずはら)地区の生産者にとっては、この大麦はどんな存在だったのだろう。葛原地区の農家に生まれ、半世紀もの間、農業に携わってきた吉用繁則(よしもち・しげのり)氏は、ニシノホシの栽培依頼が農村に持ち込まれた当初からの栽培農家だ。

吉用氏は、1994(平成6)年頃から、大分みそ協業組合からの依頼ではだか麦を栽培。そこへニシノホシ栽培の話が持ち込まれた時には、「以前にも二条大麦を作っていた経験はあるので大丈夫」と前向きな気持ちで栽培を快諾したという。白石氏から聞くニシノホシが早生品種だという特性も、稲作との二毛作を行うには有利に働くと思えた。

「このあたりでは、6月10日頃に小麦を収穫していたんです。その後は田んぼの準備をするんですが、6月18日には通水が始まってしまうので、けっこう忙しい。だから、ニシノホシなら5月のうちに収穫できると聞いて、それならいいなと思いましたね。そもそも葛原の農家たちには麦を栽培する技術があるのだから、みんなで地元をあげてニシノホシの栽培に協力していこうという話になりました」(吉用氏)

葛原アグリの生産者 吉用繁則氏(写真:三井公一)葛原アグリの生産者 吉用繁則氏(写真:三井公一)

稲作の水田と麦の畑を交互に切り替えていく二毛作。ニシノホシの栽培を始める際には、もともとは水田だった土地の排水(水はけを良くすること)に十分な注意が必要だった。

「一にも二にも排水が大事。土壌に水分が多いと麦が根腐れをおこしてしまうから。県の農政からは、水田土壌の排水を効率化するためのシートパイプの設置事業が提案されたりして、ニシノホシへの本気度が伝わってきましたね。あとは、土壌が酸性に傾いても大麦は弱ってしまうので、石灰をまいて、土壌のpHバランスを取る必要もあった。でもニシノホシは、倒伏もしにくいからきれいに収穫できて、育てやすいと思いました。難点は、長い芒(のぎ)があるから、それに触れると身体が痒くなることくらいかな(笑)」(吉用氏)

葛原地区にとっては、初めての早生品種の大麦の生産だったが、ニシノホシを扱うことにより、麦の収穫後に田んぼの準備期間を十分にとれるようになったおかげで、農業計画も立てやすくなった。

「ニシノホシという麦がなかったら、稲作との二毛作で大規模な経営はできなかったと思います。ニシノホシは経営の柱になってくれた麦ですね」

吉用氏は、三和酒類から生産者に贈る「三和酒類 西の星賞」(後述)を2007年に受賞している。

「うれしかったな、うん。自分の作った原料ですからね、それが焼酎になるのはやりがいがありますよ。農家の喜びというのは、大事に種を蒔いて育てて、できるかぎりのことをして、収穫を迎える時の喜びです。私らが、また特にいいなと思うのは、自分たちが作った麦が三和さんの技術で美味しい酒に生まれ変わるでしょう。それをみんなが喜んで飲んでくれること、それが目に見えるというのが、やっぱり一番いい」(吉用氏)

晩酌にはこればかり飲んでいます

葛原地区のもう一人の生産者、東功(ひがし・いさお)氏もまた、みずから育てたニシノホシが大分麦焼酎「西の星」となることに喜びを感じているという。東氏の晩酌は、「西の星」一徹だ。

葛原アグリの生産者 東功氏(写真:三井公一)葛原アグリの生産者 東功氏(写真:三井公一)

「西の星を飲んでからは、ほかの酒は飲まずにこればかり。雑味がなくて切れ味がありますね。仕事を終えたら午後5時から晩酌。必ず25度ロック。そのままでうまいから水で割る気がしない」(東氏)

葛原アグリの生産者 東功氏(写真:三井公一)葛原アグリの生産者 東功氏(写真:三井公一)
麦畑の中に立つ吉用氏と東氏(写真:三井公一)

同じ目標を目指して熱意を持った同志たち

ニシノホシ誕生に携わった関係者が皆、それぞれに高揚感を抱いた1999年の試飲会から四半世紀が経過。現在、三和酒類の相談役を務める和田は「1998~2001年の4年間はすごく濃縮された日々だった」と振り返る。

「やはり、皆さんの熱意がすごかったですね。会社や立場は違っても、ニシノホシに関わってくれた皆さんは、同志みたいなものだと思えますね。今、三和酒類の社員の出勤途中の風景として、自分たちが使っている焼酎の原料である大麦の畑が見えている、というのは、楽しくていいなと思いますね」(和田)

現取締役会長の下田もまた、ニシノホシは大分麦焼酎の歴史を変えたシンボリックな存在であり、その定着は「オール大分としての研究活動のおかげ」と振り返る。

「ニシノホシの優良性は、九州の別の地域でも認められていましたが、それを麦焼酎の原料とするために研究を重ねたのは大分県だけでした。三和酒類だけでは成し遂げることのできない研究のネットワークができたのは、焼酎の産地としての大分の生き残りをかけた、多くの人たちの想いがあったからですね。だからこそ、国の機関にも県の機関にも協力していただけたのだと思います」(下田)

三和酒類 取締役 会長 下田雅彦(写真:三井公一)三和酒類 取締役 会長 下田雅彦(写真:三井公一)

「三和酒類 西の星賞」

「三和酒類 西の星賞」は、地元生産者への大麦ニシノホシの栽培普及と、大分麦焼酎「西の星」の品質向上を目指して、2005(平成17)年に三和酒類が創設した賞だ。この賞は、ニシノホシの生産者に向けて贈られる。なお、2023年の表彰式より賞の名称を「iichiko 西の星賞」から「三和酒類 西の星賞」に変更、ヴィンテージ表記を、発売年から原料大麦の収穫年に変更している。

その第一審査では、原料大麦の重量、粒の均一さ、精麦のしやすさ、麹の溶けやすさなどの項目で品質を検査。その審査基準をクリアした上位4位までの栽培地区の大麦は、麦焼酎「西の星 VINTAGE」の候補として仕込まれる。

利き酒審査の様子

審査はさらにもう一段階あり、焼酎の製造後に焼酎の利き酒審査を実施。二段階の審査の結果、高評価を得た2圃場(ほじょう)が「三和酒類 西の星賞」を受賞する。受賞した栽培地区の焼酎は、地区名を冠した「西の星 VINTAGE」として発売される。

2024年発売の「西の星 VINTAGE 2023 下矢部」(左)と「西の星 VINTAGE 2023 西高家」2024年発売の「西の星 VINTAGE 2023 下矢部」(左)と「西の星 VINTAGE 2023 西高家」

この賞への応募により、ニシノホシの生産者からは「栽培へのモチベーションが上がる」「受賞をきっかけに農業との向き合い方が変わった」という声が多数、三和酒類に寄せられている。

利き酒審査の様子 2024年発売の「西の星 VINTAGE 2023 下矢部」(左)と「西の星 VINTAGE 2023 西高家」2024年発売の「西の星 VINTAGE 2023 下矢部」(左)と「西の星 VINTAGE 2023 西高家」
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●二条大麦「ニシノホシ」及び大分麦焼酎®「西の星」関連年表
年月日 出来事
1989(平成元)年 4月 三和研究所設立。「焼酎用原料麦の研究日本一」を目指す研究開始
1991(平成3)年 6月19日 焼酎用大麦に関するシンポジウム(第1回)開催
1993(平成5)年 6月25日 焼酎用大麦に関するシンポジウム(第2回)開催
  「焼酎原料に適した大麦の選択と評価法の確立」を目指し、大分県農業技術センター、工業試験場、大分県本格焼酎技術開発機構の三団体が産官協同研究をスタート
1997(平成9)年 9月 焼酎の醸造適性にすぐれた二条大麦・西海皮54号を焼酎醸造好適麦の「ニシノホシ」と命名、品種登録を出願(2001年 品種登録)
  焼酎醸造用の原料麦としてニシノホシが大分県の奨励品種に採用
1998(平成10)年 9月7日 県関係者らと三和酒類による打ち合わせ。ニシノホシの実証実験圃設置に向けて取り組むことを決定
1999(平成11)年 8月 三和酒類の実証研究施設として「酒の杜21世紀工房」設立
10月 従来品種二条大麦「ニシノチカラ」およびニシノホシを原料とした各種本格麦焼酎の仕込み開始
12月22日 ニシノチカラを原料とした焼酎とニシノホシを原料とした焼酎の試飲会実施
2000(平成12)年 9月 大分宇佐・安心院農業協同組合と三和酒類とがニシノホシの生産奨励金協定を締結
2001(平成13)年 6月21日 ニシノホシを原料とした新商品 大分麦焼酎「西の星」(20度)を発売
2005(平成17)年   地元生産者への大麦ニシノホシの栽培普及と大分麦焼酎「西の星」の品質向上を目指して「iichiko 西の星賞(現・三和酒類 西の星賞)」制度を創設
2017(平成29)年 11月 「西の星 25度」発売
2021(令和3)年   「西の星」発売20周年